33 ロ−マ人の手紙  題 「神の選びの原則 1」 2003/8/17

聖書箇所 ロマ9:6−17

「神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」
(15−16)
  


聖書とイスラエル(2)


神殿の丘

先週、私たちはイスラエル民族の霊的な特別性について学びました。彼らは「神に選ばれた特別な民であり、神の宝の民」と呼ばれています。ここで、ひとつ素朴な疑問が出てきます。神様はなぜ、「イスラエル民族を選ばれた」のでしょうか。「神の召しと賜物とは変ることがありません」(11:29)から、神の選びに関する原則は、私たちがキリストの下に召された原則とも深く関係します。ですから他人事ではありません。

神の選びの第一原則は、「わたしは哀れむものを哀れみ、慈しむものを慈しむ」(15)とモ−セに啓示されたように、「神の哀れみが、すべてに先行する」ことです。

1 先立つ神の哀れみ

神のあわれみが人間の願いや努力よりも先行することは、イスラエル12部族の父祖となったヤコブの誕生物語のなかに端的に示されています。

アブラハムの約束の子イサクの妻リベカは身ごもり双子を産みましたが、後に家督を相続したのは兄のエソウではなく、弟のヤコブでした。このことは双子が生まれる前から母リベカに「兄は弟に仕える」と予告されていた出来事でした。同じ両親からしかも同時に生まれた双子でありながら、順位を越えて兄ではなく弟が選ばれたのは、まったく神の自由な召しによることとしか説明ができません。そこで神は「わたしはヤコブを愛し、エソウを憎んだ」(13)と御心を明らかにされています。

しかし、このことばはしばしば誤解されました。宗教改革者カルバンの後継者たちが後に、「2重予定説」という恐ろしい教義を作り出しました。神様は初めから永遠の救いに定めておられる人と永遠のほろびに定められている人をはっきりと分けておられる。その決定は神の主権に基づくことだからもはや変えられないというのです。これは間違った教理です。神様は「愛することと憎むこと」のどちらかしか知らないというのは、神様を単細胞呼ばわりするのに等しい発想です。愛する憎むという言葉は、対語になっていて「愛する」を強調するヘブル的文学表現として理解すべきであると言われています。このことばを通して、「神の愛」が強調されているのです。感情レベルで「エソウは憎まれ排除された」のではありません。

そこでパウロは誤解を招く「憎む」ということばを使わず、「わたしは自分の哀れむものをあわれみ慈しむものをいつくしむ」(15)と丁寧に神の御心を説明し、中心点である神の「哀れみと慈しみ」を強調しました。哀れみは外側に向けられた神の恵み、慈しみは内側にある神の恵みと言えます。そして、恵みとは、「一方的にそそがれる神の愛」を指すことばです。

エペソの手紙では、クリスチャンの選びに関して、「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(1:4−5)と記しています。神は永遠の昔より永遠の愛をもって、私たちを選び、神の子に定め、キリストのもとに招いてくださったのです。イスラエルの選び同様、クリスチャンの選びも、神の愛が基調となり、基盤となっています。


2 ことを定める神の恵み

さらに、「ことは人間の願いや努力によるのではなく哀れんでくださる神による」(16)と、「神の哀れみ」が選びにおいて、決定的な役割を果たしていることが強調されています。神の選びを出発点として考えるときに、そこには私たちがさんざん言い聞かされてきた「行い」が入る余地がないのです。すべてが神の哀れみのよるのですから。

人間の努力や熱心さが意味を持たない代わりに、砕かれた心が神の哀れみと深く結びつきます。パウロは神の選びと召しとを考えるに際して、次のような結論を導き出しています。「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(1コリント1:26−29)

神のあわれみがことを決定しますから、極端な言い方になるかもしれませんが、「なぜ、どうして」と説明を求めることもできないのです。説明をちゃんと受けなければ納得できないのが現代人の感覚です。ですから私たちの社会では、情報を開示し、十分な説明を事前にして、同意の上でことを進めることが強調されています。特に医学の世界では強調され、医療事故のケ−スでは事前説明が不十分であれば裁判でも負けてしまうことが多くなってきています。それは医者と患者は本来同格であり治療は患者と医者の共同作業であるという視点を根拠をおいているためです。しかし、神と人間とは同格ではありません。神は主権者であり私たちは被造物です。ですから神に全てのことがらの説明を要求することはできません。しかしながら、すばらしいことに、神の主権はかならず神の憐れみにもとづいていることを私たちは知っています。ですから私たちは神の愛の深さ、広さ、高さを経験させていただきつつ、信仰によって歩んでいるのです。

3 神の哀れみが先行し決定権を持っていることを人生の出発点におく

人生は他人によって決められるものではありません。自分の人生を自分で決められず、他人に依存してしまう人は少なくありません。親や夫や妻に依存し自己決定をせず、責任を回避するのは楽な生き方かもしれません。しかしそのような未成熟さのあらわれとしての生き方はどこかで行きずまる可能性があります。自分の人生という大切な舞台では、他人の人生を代わりに演じて生きる必要はありません。自分が主人公、主役としてどうどうと遠慮なく生きるべきですし、そのように生きる事が赦されています。

一方、人生はすべて「自己決断」の連続だという人もいます。彼らは何事も自分で決めて自己選択していかなければ人生は進まないと考えます。すべての決定権を自分が握っていると確信している強い人です。ですからあまり他人に相談しません。なにごとも自分でどんどん決めてしまい、周囲の者は事後承認するしかありません。このタイプの人は急に「今日会社辞めてきた」と言い出して奥さんをびっくりさせることもあります。

「東京ラブストリー」という恋愛小説がテレビ化されて人気を博しました。現代の若者の恋愛心理が5人の男女と通じて描かれます。登場する2人の女性、赤名リカは自律した行動的な女性で、世間体など気にせず自由奔放、したいことをし言いたいことを言って周囲の人をしばしば振りまわします。しかし人から真剣に愛されるとその愛にどう対処したらいいのか混乱し、過呼吸発作を起こしてしまい、愛されることが重荷となり結果的に逃げ出してしまいます。関口さとみは何事も自分で選べず男性に依存するおとなしい女性として描かれます。決定権を男性に委ねるため、男性からは良い子と評価されかわいがられますが、主体性のなさに苦しみます。2人ともあまり幸せな生き方をしているとはいえません。他人志向的な人生では幸せになれませんが、何でもすべては自己選択と自己決定にかかっているという生きかたにも限界があります。彼女たちはそれぞれの生き方の限界を象徴しているようです。

昨日、京都女子大学の大塚義孝先生のお話をききました。その中で「人間は一人で生きてゆけない。同じ時間は永遠に来ない。そして運命は選択である。」と言われました。ここには他者と共存して生きて行くことを願う人間関係があります。時は永遠に過ぎ去りますから今を大切に生きなければならないという時間感覚があります。そして運命とは結局のところ選択と決断の連続ですから、先送りしないで決めるときには決めるという覚悟の大切さが強調されています。自己選択・自己決断に基づく自律した生き方は真の人生を生きるための必要条件と言えます。

同時に先生は「われわれは縁があって1度だけ地球上に招待された。だから感謝しなくてはなりません」と言われました。仏教系大学の先生らしいことばですが、バランス感覚のよさを感じました。確かに人生は選択の連続です、自己選択、自己決断が運命を創造してゆきます。しかしそれだけではなく、「縁があって1度だけ地球に招待された」という、目に見えない大きな存在への帰依の心がやはりなくてはならないのです。「縁があり招待されて」という言葉の中に存在している、「与えられ生かされている存在としての自己理解」は、とても大切な感覚だと思います。現代人はこの感覚を失いかけているのではないでしょうか。そのために心の葛藤と空しさを抱え込んでしまっているにではないでしょうか。

「自己決断」と「神に招かれている人生」という両者のバランス感覚を保つ中に真の生き方があると私は思います。

目に見えない存在に「信頼する心」はいつしか「感謝」を心にあふれさせます。大塚先生は、「感謝」ということばを使うこと事態が、最近の学生たちからは「年寄りくさい」と言われるとこぼしておられました。皆さん、ちなみにこの1週間、「感謝します」という言葉をあなたは何回ほど使いましたか。「感謝」がいつのまにか「当たり前」となってしまってはいませんか。

神の哀れみが先行ししかも決定権を持っていることを人生の出発点におくとき、その人の心の中に謙虚さと感謝がわいてきます。そして感謝の心こそが幸福な人生のバロメターなのです。

                           祈り

神様の豊かな哀れみがこのような小さなものを見出してくださいました。願わくはいよいよ、神様の前に
謙虚に生きることをお導きください。


      

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