32 ロ−マ人の手紙  題 「神の選びの民・イスラエル」 2003/8/17

聖書箇所 ロマ9:1−5

「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」(4-5)  



神殿の丘

イスラエルが救い主であるキリストを拒み、キリストの福音を失っていることはパウロにとっては大きな心の痛みでした。

1 パウロの心の痛み 

パウロは同胞ユダヤ人が神に捨てられているかのような現実を嘆き、その気持ちを「深い心の悲しみと痛み」(2)と表現しました。「痛み」と訳されたことばは、心を傷つけるばかりでなく体にまでおよぶ痛み、心身を貫く痛みをさすギリシャ語です。不信仰のゆえに捨てられている同胞ユダヤ人を思う時、パウロは「心身を貫く痛み」を激しく感じていたのです。心身医学とか心療内科ということばは最近定着してきました。日本では九州大学の池見先生が先駆者ですが最初は学会で承認されませんでした。患者にバリウムをのんでもらい辛いこと嬉しいことを考えてもらうと、胃や腸の動きがまったく異なることをビデオにとって学会で発表しましたが酷評され、心痛のためにその晩、先生は吐血して入院したというエピソードを聞きました。キリキリと胃が痛むほど、吐血しかねないほどの痛みを持つほど、同胞ユダヤ人の救いを願ったパウロの心中を理解しなければなりません。

パウロは彼らの救いのためならば、「私が呪われても、キリストから捨てられてもいい」(3)とさえ公言しました。イエス様が罪人の救いのために十字架にかかり、神にのろわれ、見捨てられ、贖いの供え物となられたように、パウロはユダヤ人の救いのためならば自らを喜んで犠牲にする覚悟があると言うのです。その理由は2つあります。

1 ユダヤ人は「肉による兄弟」だからです。パウロは血族関係、絆、連帯感を大事にしていました。アブラハムはソドムの町に移り住んだ甥のロトを案じ、彼の家族の救いのために熱心にとりなしました。モーセも不信仰な民が金の子牛をつくって拝みだした時、敗れ口に立って執り成し、かれらの罪をお許しくださいと神に願い、「もしもかないませんならばどうか、あなたがお書きになったあなたの書物から私の名を消し去ってください」(出32:32)と申し出ました。アブラハムもモーセもパウロも決して心冷ややかな人物ではありませんでした。同族のために心熱く執り成す心を持っていた人々でした。

個人主義は適切性を失うと、利己主義に陥ります。現代社会は家族を含め人間関係の絆が希薄化していると指摘されています。人と人との絆の回復、連帯意識の創造的再生は、きっとこれからの日本社会の大きな課題となるのではと私は感じています。何よりも、私たちは「家族の救い」のために、そしてアジア最大の霊的な暗黒経済大国に住む「1億2000万の日本人」の救いのために、こころ熱く継続して祈り続けていくことが求められています。

2 ユダヤ人の救いは「神の約束の真実性」と関わる問題とパウロは受け止めました。もしユダヤ人が神から永久に見捨てられるというのなら、アブラハム、イサク、ヤコブに対してなされた神の約束が破られることになります。神がご自分の約束を破るようなことがあるならば、神の真実さは疑わしいものとなります。そうであれば神がイエスキリストにおいて約束してくださった十字架の赦しと罪からの永遠の救いも根拠を失うことになります。まさにこれは、ユダヤ人問題を超えて「福音の根本問題」と関わる重大事となります。キリストの十字架の救いの根拠である、神のことばの真実さが揺さぶられることがあってはならないからです。そこでパウロは9−11章の3章をさいて、ユダヤ人の放棄と救いの問題を、福音の根本問題としてとらえ、取り組んでいます。

2 ユダヤ人の特別性

まずパウロは、ユダヤ人が神との関係の中で占める特別な立場について述べます。

第一に、彼らは「イスラエル人」と神から呼ばれました。イスラエルは、イサクの息子ヤコブが後に神から新しく与えられた名前ですが、語源は「神の皇太子」という栄光に満ちた名前です。神の国を受け継ぐ「栄光の民」「神の子」を現す極めて象徴的なことばです

第二に、「栄光」が与えられました。栄光とは「神が民の中に幕屋や神殿において臨在されること」を指します。つまり、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる」(出33:22)ことの特別なしるしでした。

第三に、「もろもろの契約と預言の約束とモーセの律法」が与えられていることです。これはイスラエルが神様との特別な契約によって結ばれていることを意味します。パウロはイスラエルを「契約の民」と理解しています。保証人の判を押せば重大な責任がともないます。契約を結ぶということは決して軽いことではありません。神様はイスラエルを選び、ご自身の真実さをかけて重要な契約をかわされたのです。

第四に、彼らには「父祖」たちがいます。偉大な信仰者、アブラハ、イサク、ヤコブの子孫であるのです。人間的表現をすれば、キリストもダビデ王の子孫からユダヤ人としてお生まれになりました。ユダヤ人伝道の指導者の一人であるハンセン博士は、「ユダヤ人伝道とは、私たちがユダヤ人から受けた最高のものを、ユダヤ人にお返しすることです」と語っています。意義深いことばだと思います。ユダヤ人の全人類への最大の貢献は彼らからキリストがお生まれになったことです。ユダヤ人の存在なくして、キリストはこの世にお生まれになりませんでした。

特に、イスラエルへの神の契約のことばを再確認しましょう。アブラハムへの約束をアブラハム契約と言います。
「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」(創17:4−8)

イスラエルと名前を変えられたヤコブへの契約も非常に重要です。
「あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」(創28:14−15)「神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。(創35:11−12)

イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活に辛苦していたとき、神はモーセをお立てになりエジプトから救出されました。そのとき、イスラエルの民に重要な約束が与えられました。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出19:5−6)

イスラエルはこのように、特別な契約関係の中に招かれた特別な民です。それゆえ神は、イスラエルを「宝の民」とさえ呼ばれるます。

神様はこのように「特別な約束を交わしたイスラエル」を完全に見捨てになるのでしょうか。結論的にいえば、NOです。パウロが聖霊に啓示された神の御心は、11:25−26に簡潔に記されています。これこそパウロの希望と確信でした。
「その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」

イスラエルは不信仰のゆえに退けられています。しかしそこには神の主権に基いた介入があり、神は異邦人のための救いの道を備える機会とされました。そして終末において、異邦人の救いの数が満ち彼らに対する神のご計画が完成するとき、再びイスラエルの救いの道が整えられ、民族的なレベルでのユダヤ人の救いがはじまり、神の契約の民としてのイスラエルが本来の姿に回復し、イスラエルへの契約が歴史的に成就すると思われます。終末における異邦人とイスラエルの完成を導かれる神の主権的な御業と神のお約束の真実性を9−11章において学んでまいりましょう。

                「 神の賜物と召命とは変わることがありません。」(ロマ11:29)


                     祈り

変わることのない神の召しのゆえに感謝いたします。私たちの十字架のすくいも、神の真実さにもとづいていることを覚えて感謝します。

     

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