26 ロ−マ人の手紙  題 「キリストの御霊の内住」 2003/7/6

聖書箇所 ロマ8:9-14

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(9-11)


内村鑑三は、ロマ書8章は「聖書の最高峰である」と言いました。8章の中心主題は、「キリストに属する者の心にはキリストの御霊が住まわれる」という奥義です。キリストの御霊が信じるも者の心とその共同体の中に住まわれることを「聖霊の内住」と表現します。たいへん特徴的なことですが、7章では罪深い「わたし」という言葉が42回も用いられていますが、8章に入るやいなや「御霊」という言葉が20回以上も使用されます。ですから8章を聖霊の章と呼ぶこともできると思います。しかも8章においては、神の御霊が住まわれるという真理、内住の御霊、内住のキリストが中心点になっています。

「もし神の御霊があなた方のうちに住んでいるなら」(9)

「もしキリストがあなた方のうちにおられるなら」(10)

「イエスを死者の中からよみがえらせたかたの御霊があなた方のうちに住んでおられるならば」(11)

聖霊が住まわれることと、甦られたキリストが住まわれることは同じことがらの2つの表現です。また神の御霊も、聖霊も、キリストの御霊も同じことを指しており、相互に置き換えることができます。父は御子においてご自身をあらわし、御子は御霊においてご自身をあらわし、御霊はクリスチャンの生活においてご自身をあらわすことを願われているからです。そしてこれらは結局は1つの体験をさしています。

「聖霊の内住」、つまり神の霊がわたしたちのうちに宿ることは霊的な特権であり、神様は「キリストの御霊が住まわれる」ことの祝福を私たちが大いに喜ぶことを願っておられます。旧約の聖徒たちがどれほど慕いもとめた祝福でしょうか。

ところが私たちはその祝福をまだ十分理解しておらず、何よりも信仰生活の中のリアリティーとして経験することがとぼしいように感じます。おおいなる損失といえます。たとえば、アンドリュー・マーレーやハドソン・テーラーなどの書物を読むと、かれらがどれほど豊かに御霊に導かれ、内住のキリストとの交わりの中にキリスト者としての喜び、力、愛、いのちを見出していたかが強く伝わってきます。うらやましさを覚えるほどの豊かな霊の交わりと満たしを彼らは経験していることに驚きを覚えます。彼らが特別な人々であるというより、私たちがまだ聖霊の内住の真価を経験し切れていないといえると思います。

私たちの霊的な損失がどれほど大きいものか、たとえるならば、1億円も2億円もする最高級ヨットをただでプレゼントされながら、ヨットの操縦がわからなくて港につないで眺めているだけの人とみなすことができます。最高級ヨットも港につないで眺めるだけの存在ならば、そのヨットは十分に機能しているとはいえませんし、価値が半減してしまいます。賜物としての聖霊は私たちが「所有する」だけではなく「経験する」ために神様によって与えられているのですから。

1 賜物としての御霊の内住

「キリストの御霊を持たないものはキリストのものではありません」(9)

「クリスチャンだけれどひょっとして聖霊を持っていないかもしれない」と自分の言動や生活を見て否定的にこのみことばを読んでしまう人がいるかもしれません。そのような消極的否定的な聖書の読み方は聖書にふさわしくありません。すべてのクリスチャンはキリストの御霊をすでに受けています。これはまぎれもない事実です。9節のみことばは私たちに確信を与えるものであって、クリスチャンの特権を宣言しているのです。あなたがクリスチャンならば、あなたは御霊をすでに宿しているのです。

このように聖霊が内住されることは、私たちにとって、受け取る事が赦されている「最高の贈り物」であることを感謝しましょう。旧約の人々がせつに願っていた祝福をキリストを通して私たちは今いただいているのです。次のペテロのことばが証明しています。

「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒1:38)

罪を悔い改め、イエス様を救い主と告白し、そのしるしとしてバプテスマを受けたすべてのクリスチャンには、賜物(単数)として聖霊が与えられることがはっきりと確約されています。神はキリストを信じる者に2つの偉大な贈り物をしてくださいました。「十字架の赦し」と「賜物として聖霊」です。この2つの偉大な賜物はただ神からのみ、そして信仰によってのみ受けることができます。

ビリー・グラハム博士は、著書「聖霊」(いのちのことば社)のなかで、「イエスキリストは永遠のいのちのために、聖霊は内面のいのちのために、わたしに必要なのだ」といった友人のことばを紹介しています。さらに神が2つの賜物を与えてくださった理由についても、「人類の2つの大きな叫びである「赦しの求め」と、「善をしたいと願う求め」に答えるためである」と書いています。みごとなまでの神のご配慮です。神は私たちに戒めを与えるだけではなく、救いの道と救いの力をも備えてくださったのです。御子の十字架は私たちが罪から救われるために、内住の聖霊は私たちが神の御心にかなった聖い生活をするために、神が与えてくださった偉大な賜物です。まず、神の2つの賜物に感謝しましょう。

2 救いの保証として

「もしキリストの御霊をもっているのなら、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」(11)

死ぬべきからだが生かされるとは、終わりの日のよみがえりをさしています。生まれながらの私たちはアダムに属する肉なる人であり、罪と死の原理に支配されている滅びるべき存在です。

内に住まわれる御霊は、私たちが終わりの日に、お約束通り復活の体をいただき、永遠のいのちを受けて、天の御国を受け継ぐ、確かな保証とされていることを11節は明らかにしています。目に見えませんがもっとも確かなしるしとされています。

私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」(2コリ1:21−22)

この保証というい言葉は「手付金」の意味を持っています。手付金は後から全額支払われるお金の一部であり、全額が必ず払われるための保証として前払いされます。御霊はキリストを信じる者たちが、永遠のからだを受けるための手付けとして、与えられているのです。目に見えませんが、もっとも確かな保証として、救いのしるしとして、聖霊が私たちのうちにすでに与えられているのです。

アヒルの子と鶏の子と白鳥の子が一緒に群れていましたが、ある時、それぞれのひなが水辺に来て泳ぎだしました。しかし鶏の子は泳げませんでした。しばらくたち、やがて白鳥の子は水面を飛び立ちましたが、アヒルの子は飛べませんでした。白鳥のいのちには空を飛ぶ遺伝子が組み込まれています。だから時がきたら白鳥は空を飛ぶことができます。それは他のひなたちには不可能なことでした。にわとりのひなは泳ぐことができず、アヒルのひなは空を飛ぶことができません。内なるいのちが異なるからです。

神の子供たちには、永遠のいのちと復活の体を受け継ぐ保証として、聖霊が心の内に与えられています。キリストの御霊を心に宿すことによってのみ、私たちの魂は栄光から栄光へと主と同じ御姿に変えられ、天に引き上げられてゆくのです。

               神の豊かな賜物のゆえに神に感謝します。


                      祈り

わたしたちの中にキリストの御霊が住んでおられる、まさにこのこと自体が神様からの豊かな賜物であり、
私たちが有している最大の特権であることを感謝します。
聖霊の賜物を受けている私たちが聖霊のいのちに導かれて生きるリアリティ−をさらに豊かに経験し
神をほめたたえるものとしてください。

     

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