25 ロ−マ人の手紙  題 「いのちの御霊の原理」 2003/6/29

聖書箇所 ロマ8:1-5

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(1-2)   


今日は94歳になられる姉妹のバプテスマ式がもたれました。使徒20:21に従い、神に対する、悔い改めの祈りと、キリストに対する信仰の告白をしていただきました。ご自分の罪深さをよく自覚されておられ正直驚きました。94歳にもなられれば長生きされるだけで周囲の人々はほめ、罪など誰もとがめだてをしません。けれども、御本人自身が罪を自覚しておられその赦しを求めておられたのです。だれでもキリストにあるならば2つの大いなる祝福を受けます。罪の赦しと御霊の賜物です。キリストの十字架は罪の赦しを、キリストの御霊は罪からの解放をもらたします。バプテスマ式にあたり私たちはこの賜物を再確認させていただきましょう。

1 すばらしい赦し

「キリストにあるならば決して罪に定められることは無い」(1)と聖書は断言しています。終わりの日にもし神が私たちを罪に定められるならば、死の判決が下り、私たちは永遠の刑罰、地獄の刑罰を受けなければなりません。しかし御子イエスキリストが十字架にかかり身代わりとなって刑罰を受けて死んでくださったので、全人類の罪はゆるされ死の刑罰は執行停止となり無効となりました。キリストの十字架の赦しは絶対であり、疑いの余地はまったくありません。

「御子イエスの血はすべての罪からわたしたちをきよめます」(1ヨハネ1:8)

大切なことは、「キリストにある者」(1)となることです。つまり個人的な信仰の告白をささげ、キリストに結び合わされ、キリスト者として生きることが求められます。神は「クリスチャンらしく」生きることを求めてはいません、「キリスト者」として生きることを願われています。すばらしい救いを受けるために、まず神の子としての特別な立場を得てください。「イエスキリストは私の救い主」ですと、個人的な信仰の告白をささげ、その目に見える証しとしてキリストの名による水のバプテスマを受けていただきたいのです。

 「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるのです」(ロマ10:10)

2 すばらしい解放

十字架の赦しを、聖霊との関係におきなおすと、「いのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放した」というパウロの表現にいたります。「贖い」は、御子との関連で考えれば、「十字架の赦し」となり、御霊との関連で考えれば、「キリストの御霊による解放」と表現できます。赦しと解放が福音の中味です。

原理あるいは法則(口語訳)ということばは、例外無くすべてのひとが支配されてしまうある秩序や力をさしています。たとえば科学の領域では、ニュートンが発見した「万有引力の法則」によって、誰がりんごを落としても、りんごは下に落ちます。鉄1キロと綿1キロを落とせば同時に着地します。科学者たちは数学、物理学、天文学などの分野で多くの法則を発見し、科学技術を発展させてきました。

人間の生き方にも基本的原理法則があるのです。罪と死の原理に支配されるか、いのちの御霊に支配されるかどちらかに人は属します。

「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」(6)

「肉の思いは神に敵する」(7)「肉にあるものは神を喜ばせることはできない」(8)

もし罪と死の原理に支配されれば、神への敵意、反逆、不従順がますます増大し、もしいのちの御霊の原理に支配されれば、いのちと平安、喜びが次第に心と生活に満ちることになります。あなたのどちらの原理に生きることを願いますか。

岡堂哲雄文教大学教授が講義の中で、ダーウィンが「種の起源」という進化論を発表してから欧米の子育てが変わったと興味深いお話をしてくださいました。「ダ−ウィン以前は、キリスト教の教えに基づき人間は神によって創造された神の子であり、親は神から子どもを託され、育児養育に携わる。神から託された良いものを悪くしたら申し訳ないから育児をしっかりした。ダーウィン以後、人間は動物の子であると人々は考えるようになった。動物の子だから、つまりもともとどうしようもない動物だから、しっかり厳しくしつけ、調教と餌づけをしなければ悪くなるばかりと考えるようになった。神の子としてみるか動物の子としてみるかで、育児も教育も大きく変わってしまう。」このような趣旨のことを話されましたが、人間を神のかたちに似せて創造された価値ある存在とみなすか、サルから進化した動物の子と見なすかで、子育てにも大きな変化をもたらすことを改めて知りました。

罪と死の原理の中にいれば罪と死に支配されたままの人生を過ごすことになります。けれどもいのちの御霊の原理の中にいれば神との豊かな交わりに生かされることができます。あなたはどちらの原理に生きることを願いますか。

内村鑑三はロマ書の研究の中で「キリストイエスにある者」とは、「単にキリストを信じる者ではない、彼を崇め拝む者でもない、きリストのうちに自己を投げ込んだ者である。」と言っています。含蓄のあることばです。自我を捨て、キリストにすべてを委ねて、キリストにあって生きる者たちは、御霊の愛、喜び、力、いのちの中に、自由を得て生きることが導かれるのです。


                      祈り

わたしたちを罪と死の原理が貫いている古い世界から解き放ち、いのちの御霊が御支配される新しい世界へと移してください。

                                                                                         
     

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