12 ロ−マ人の手紙  題「イエスキリストによる唯一の救い」  2003/2/1
 

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」(ロマ3:24−25)


人生には辛い選択をしなければ成らないことがあります。アメリカに住むアイバン・フライ夫婦に試練が訪れました。主人は関節炎で腕の機能がマヒし働けなくなり、奥さんはガンにかかり回復の見込みがなくなりました。彼らは10人の子供たちを養子に出す辛い決心をしました。子どもたちの幸福のためにベストの判断と結論したからです。夫婦の仲がよく、子どもを愛してくれる人たち、日曜日には家族そろって礼拝に出席する家庭であることを条件にして、面接をし、それぞれの子どもの新しい両親を選び託しました。そんな親を恨み反発する子どももいました。奥さんはまもなくガンでなくなりましたが、12数年たったとき、子供たちが揃って父親に会いに来て、心から父母の決断に感謝しました。フライさんは25人の孫に囲まれて晩年をすごされたそうです。

北朝鮮から帰国した蓮池さん、地村さん、曽我さんたちも子どもや夫を残したまま日本に留まるという苦渋の選択をしました。その選択が実を結ぶように祈りましょう。

2000年前、天の父なる神様は、大きな犠牲を払って苦渋の決断をされました。しかしその決断によって、全人類に唯一の救いの道が切り開かれたのでした。

宗教的な民族であるユダヤ人も芸術哲学に秀でたギリシャ人も政治や軍事や都市建設に能力を発揮するロ−マ人も、すべての人類は、罪の力の支配下にあり、このままでは死と滅びしか待っていないことをパウロは明らかにしました。「義人はいない、一人もいない」それが神の目に映る人間のありのままの姿でした。

天の父なる神様がそのような人間に救いをもたらすためにどのように思案され、決断され、行動されたのかが今日の箇所にはっきりと記されています。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」(ロマ3:24−25)

キリストイエスによる贖い、その血によるなだめの供え物という2つのことばがキ−ワ−ドです。もしユダヤ人がこのことばの真意を理解することができたならば、彼らはみな救われることでしょう。ほんらいユダヤ人になじみの深いことばだからです。

1 贖い

「贖う」とは、聞きなれないことばですが、「犯罪人を赦す、釈放する」という意味で使用され、名詞形には「身代金」という意味があります。ユダヤ人にとってはエジプトでの奴隷生活からの解放を思い起こさせることばです。神が遣わされた預言者モ−セによって、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルは解放されました。エジプトで生まれたイスラエル人は奴隷として生活し奴隷として死ぬいがいに道はありませんでした。エジプトの支配 逃れる道は閉ざされていました。モ−セは神の全能の御力によって、エジプト国王の権力と支配を打ち砕き、王の戦力であるかい軍団を紅海の底に葬り去りました。

神の御子キリストは、新しいモ−セとしてユダヤ人のみならず全人類を罪と神の怒りより救い出し解放してくださったのです。モ−セはいわばキリストの旧約的なひな型だったのです。

2 血によるなだめの供え物

怒っている相手をなだめるという意味です。もともとのことばは神殿の至聖所におかれた「契約の箱」の覆い、つまり蓋の部分を指しています。契約の箱の中には「10戒が記された2枚の石の板」が入っていました。箱の覆いは最も聖なる場所であり、「贖罪所」と呼ばれました。年に1度の贖罪日は全イスラエル民族が神の前に罪を悔い改める日でしたが、この日、大祭司が屠られた子羊の血を携えて、至聖所の契約の箱の前にただ一人進み出て、子羊の血を7度、契約の箱の蓋に注ぎました(出25:17−21)。この子羊の犠牲の血によって、イスラエルの民が犯した罪に対する神の怒りがなだめられ、取り除かれ、神との交わりが回復すると信じられていたのです。至聖所の中でも契約の箱の蓋は最も聖なる「恵の座」[2]と呼ばれていました。

カルバリの十字架で釘付けにされたイエスキリストの死と、流された血は、神の怒りをなだめる犠牲の血であったとパウロは理解したのでした。何度も繰り返す必要が無い、ただ1度の完全な犠牲であり、御子の血によって神の怒りは取り除かれたと知ったのです。

ユダヤ人にとって神殿の至聖所の契約の箱の蓋が、最も聖なる「恵の座」でしたが、今やパウロにとっては、カルバリの丘の十字架こそが最も聖なる「恵の座」となったのでした。なにひとつ罪を犯されなかった聖い神の御子が、全人類の罪を背負い、神に呪われ、見捨てられ裁かれ、死なれた、あのカルバリの丘に立てられた十字架こそが、神からの恵が全人類に啓示された「神からの恵の座」だったと知ったのです。

これらの真理はユダヤ人を対象にして書かれたヘブル人の手紙の中に、「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)と、説明されています。

この世には、自分が罪人であると自覚している罪人と自分は正しいと思っている罪人の2種の罪人しかいません。クリスチャンも「罪赦された罪人」にすぎないのです。神の怒りと肉体の死と永遠の魂の滅びという「罪の下に置かれた」(9)、全人類を贖い、解放し、救い出すために、天の父なる神様は、一人子イエスをこの世に下し、十字架の上で死なせ、その血による永遠の贖いの供え物とされたのでした。

明治大正時代に日本のキリスト教の精神的支柱となった内村鑑三は、父なる神様の胸中をこのような感動を込めて記しています。

「神は罪人を赦さんと欲す。しかし罰なしに赦し得ない。もし罪人に対して正当なる罰をもって望まんか。人類はただひとりとして滅亡の否運をまぬかるるをえない。義のためには罰せねばならない。愛のためには赦したいと思う。滅ぼすべきか生かすべきか。永遠の死か、永遠の生か。永遠の呪詛か永遠の祝福か、神はこの至難なる難問をその一人この降生と受難とをもって見事に解かれたのである。ために義も立ち愛も行われる。罪は罰はせられ、そして赦される。人は滅ぼされ、そしてまたとこしえに生きる。人はキリストにありて永遠に滅ぼされ、人はキリストにありて永遠に生きるのである。[3]

天の父なる神様のこの決断を神の恵み、永遠の愛と呼びます。十字架こそ、神の義と神の愛が交差し一つとなって完成した、救いの座なのです。そして誰でもこの十字架を信じ、そこに留まるかぎり、確かな救いを得ることかできるのです。

ユダヤ人が恵の座と考えた神殿の至聖所も契約の箱ももはや存在しません。カルバリの丘の十字架の場所を正確につきとめることもできません。しかし、今、私たちはキリストの名によってバプテスマを受け、キリストの十字架の贖いを記念する「聖餐」に預かることによって、神の前に立ち、恵の座に招かれています。イエス様は「これは私の血による新しい契約である」(1コリ10:25)と約束してくださいました。

神の御子イエスキリストの名に勝る救い主の名がどこにあるでしょうか。父なる神が愛をもってご決断された十字架の救い以外にどこに罪の赦しと解放があるでしょうか。

誇り高いユダヤ人であったパウロは「キリストの十字架以外に誇るものはない」(ガラ6:14)とさえ言いました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリ1:18)と信じました。

三浦綾子さんが書いた小説「氷点」の最初の表題は「原罪」だったそうです。出版社が響きの良い「氷点」というタイトル名にしたそうです。すべての人が罪の下に、神の怒りの下にあり、生まれながらすべての人が原罪の束縛の中にあります。そんな私たちを贖い、解放し、罪の赦しと平安へと導いてくださったのは、神の御子イエスキリストであり、父が備えてくださった十字架の救いのみです。

今年こそ長い求道の歩みに終止符を打ち、あなたもイエスキリストを信じる信仰を自ら主体的に選択し決断していただければと願います。

「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来てくださったということばは確実で、そのまま受け入れるのに足るものである。」(1テモ1:15)


              
祈り

唯一つの救いの道、イエスキリストと十字架の救いを受け入れる者としてください。そして十字架の恵みを 神様からの賜物として感謝して仰ぎ見続けさせてください。

     

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