11 ロ−マ人の手紙 主題 「主よ、あわれみたまえ」

「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方 をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
 絶対にそんなことはありません。」 (ロマ3:5−6)


ドイツの宣教師が本に書いていた実話ですが、あるいたずら好きの人が町の3人の有名人に「すべてが明らかになった」と1行だけ書いた手紙を送りつけたそうです。すると一人は将来を悲観して自殺してしまい、2人は裁判をおそれて町から逃げ出してしまったそうです。なに一つ罪や過ちを犯さなくて人生を生きることは難しいものです。

2000年前、パウロは「すべての人間は罪をおかしたので神の栄光を受けることができなくなっている」(23)といいました。特に神の教えを持つ優れた民族だと宗教的に自負しているユダヤ人の肉的な誇りをパウロは打ち砕きました。と同時に、自分たちにはすばらしい学問と芸術があると誇るギリシャ人も、自分たちには世界を統一したロ−マ皇帝による政治力と軍事力があると豪語するロ−マ人も、みな一人残らず「罪の下にある」(9)のだと指摘しています。つまり世界中のすべての者が等しく罪のもとにあり、義人は一人もいない、善を行う人も一人もいない、生まれながらの人間はみな罪人であると教えたのです。もちろん日本人である私たちも同じです。

共同訳聖書の中に罪人という言葉は67回記されていますが、犯罪人ということばが6回使われています。この6回の場合は、明らかに法に触れた十字架で処刑される人々を指しています。つまり聖書は犯罪人と罪人を区別し、罪人と記す場合には、きわめて宗教的な深い意味を込めているのです。パウロは旧約聖書を引用しながら5つの角度から罪人について語っています。

1 罪のもとにある

「もと」というギリシャ語は「支配下に置かれている」という意味を持っています。

つまり最初の人間であるアダムが神様に背いて罪を犯して以来、全人類が一人のこらず罪の力の支配下に置かれ、さらに罪の結果として人間が生きる世界そのものがもはや「死と滅び」の中に永遠に閉じ込められてしまったというのです。

ニグレンという神学者は、一つの特徴的な性質を持つ時代とか世代とか世界を意味するアイオ−ンというギリシャ語を用いて、アダム以来人類が積み重ねてきた時代を一区切りにして「古いアイオ−ン」と表現しました。一方、神の御子であるキリストが十字架に係って死なれ3日後に復活されてついに死の力を打ち破られたことによって始まった永遠の命の世代を「新しいアイオ−ン」と呼びました。そして救いとは、道徳的倫理的な心の完成を目指すということよりも、古い滅び行く世代から永遠の命に支配されている新しい世世代に移されることにあると強調したのです。

鉄橋が濁流に流されてしまった。汽車がそこにやってくる。ところが列車の中では乗客が、誰がりっぱで誰がダメだとかそれぞれの道徳心を比べあっている。今ここで真剣に考えなければならないことは、汽車の中の乗客一人一人の道徳性や人間性をあれこれ比較し合う事ではなく、乗客が乗り込んだ汽車そのものがこのままではいずれ濁流の中に落ち込んでしまうという深刻な事態について対処することです。このままでは滅びに向かうしかない汽車に乗っているならば、まずこの汽車から降り、新しい汽車に乗り換えるしか手はありません。

「私の言葉を聴いて私を遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、裁きに合うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5:24)とイエス様は約束してくださいました。キリストを信じる者たちはその信仰のゆえに、すでに死からいのちに、滅びから救いに、つまり古い代から新しい代に、移されているというのです

2 神を求めない

これは私たち人間の生まれながらの性質です。まことの神様を拒んで生きようとするかたくなさのことです。英語で罪のことをSINと書きますが、このスペルの真ん中にはIがあります。いつも自分を中心にしてしか考えられない、行動できない、それが人間の罪だと示唆しているかのようです。神様よりも自分が中心、神様よりも自分を愛してしまう、それが人間の罪の本質なのです。だれも神を求めようとしません。ただ、さまざまな人生の試練を経験して、自我がくだかれた人々が神を心から求めるようになるのです。

このお正月に数百万人の人々が初詣に出かけました。一見、神様を求めているように見えますが、正確に言えば神様を求めているのではなく、神様のご利益を求めていると言えばいいすぎでしょうか。あながちはずれてはいないと思います。神様のご利益を求めるけれど、神様自身を求めているかとなるとこころもとない。神社仏閣にお参りに行ってもご神体やご本尊が誰なのかじつのところわからない場合が多いのです。ですからご利益があればどんな神様でも拝みますし、ご利益がなければ他の神様探しを始めてしまうのです。

聖書は「心を尽くし思いを尽くしてあなたの主である神を愛せよ」と呼びかけています。信仰とは全人格をもって神様を愛することであると教えています。私たちが人を愛し結婚するときにも、その人自身を愛して結婚するのであって、その人の持っているお金や地位や名声を愛して結婚するわけではありません。神を信じることは神を愛することです。

迷い出て無益なものになっている

無益と言う言葉の意味は「牛乳がくさって酸っぱくなった状態」を指すことばだそうです。創造主なる神様は人間をご自身の御性質に似せて作られました。ですから本来は神様の喜びとなる存在でした。ところがやがて自分のことしか考えられない自己中心的でわがままなものとなり神に逆らうようになり、神様が飲むことができないすっぱい牛乳となってしまったのです。神様が本来、望んでおられる関係を保つことができなくなってしまったのです。その結果、迷いの多い人生を歩むことになりました。生きる道を見失い、生きる基準を見失い、生きる目的さえわからなくなってしまったのです。空しさと自己存在の無意味さが心を蝕むようになりました。何をもってしても心の空虚さを埋めようとしてもうめきれなくなってしまったのです。

イエス様は、このような罪人の無益さを理解しておられ、「私が来たのは失われた人を訪ねて救うためである」と言われました。神の御子であるイエス様の目には私たちはまさしく導き手である羊飼いを見失い、荒野を空しくさ迷う羊の姿のように映っていたのです。

4 ことばによる嘘と攻撃

人間はことばで生きる存在です。その証拠に赤ちゃんがことばを話すようになった時、どれほど両親は喜ぶことでしょう。人間はたとえ物がなくてもお金が無くてもことばによって愛し合い、励ましあい、支えあうことができます。私たち人間がことばを話すことは神様からの最大の贈りものと言えると思います。

しかし悲しいことにこのことばで神をあなどり、人を傷つけてしまうこともできるのです。ことばで人をあざむき、嘘をついたり、ごまかしたりします。ことばで人を激しくののしり、裁き、非難し、攻め立てます。愛の神様から遠く離れれば離れるほど私たちの言葉もまた愛を失い真実さを失ってゆくのです。

名古屋でビルの屋上から飛び降り自殺をしようとしている女子中学生を両親や友人や警察官や説得させて思いとどまらせましたが、下から見ていた野次馬が「人騒がせな、死ぬならとっとと死ね」と言ったため身を翻していのちを絶ってしまった事件がありました。私たちはことばで人を死に追いやることにもなるのです。

聖書は「神は愛だ」と教えます。ですから神様から離れれば離れるほど、ことばが愛を失いそしていのちを失ってゆくのです。

5 和解と平和ではなく争いに走る

ことばの争いはやがて暴力へとエスカレ−トします。個人の暴力はやがて一つの集団による暴力、一つの民族による暴力、最後には一つの国家による暴力へと突き進みます。暴力と言うものは一度歯車が回りだすとそれをとめることは難しいものです。分かっていながら奥さんを殴るけるという家庭内暴力や幼い子どものいのちまで奪ってしまうような児童虐待も急増し深刻な問題となっています。和解と平和への道は遠く、暴力と破壊の道に急ぎやすい、ここにも人間の罪深い姿を見ることができます。

このような私たちには絶望しか残されていないのでしょうか。いいえ決してそうではありません。神の前に自分の罪深さを知るとき、私たちの魂から「主よ、哀れみたまえ」との願いと祈りがわきあがってくるのです。それはもはやご利益の次元を超えたところから湧き上ってくる切なる祈りです。多くの偽りの言葉よりも一つの真実なことばによる祈りを神様は喜ばれます。「主よ、哀れみ給え」との切なる祈りに答えて、神は十字架のキリストを霊とまことをもって仰がしてくださることでしょう。

義人はいない一人もいないという現実の中で、神のみもとから来られたただ一人のお方が完全な義人として私たちの前に立ってくださり救いをもたらしてくださることを知るのです。その発見は大きな喜びと感謝となって私たちの人生を包むのです。

最近聞いたある方の証しですが、子どもの頃から生きることの意味がわからず悩み続けていたそうです。しかしある時、聖書を読む中で、創造主なる神がおられ、すばらしい人生のご計画を立てていてくださることを知りました。自分が自分の生きる目的を見つけることではなくて、この神様のばらしいご計画にそって生かされることが人生の意味なのだとわかったときに、頭の中で「キンコンカンコン」と鐘の音が鳴り響いたそうです。悩んだ時間が長かった分、神様の御心を知ったときに喜びがあふれたそうです。

罪の下にある人生、死と滅び、空しさと迷い、自己中心と争いからイエスキリストは神にある平安、喜び、感謝、希望の人生へと私たちを移してくださいます。キリストを信じる者を神の恵みの只中へと捕らえ移してくださるのです。

「主よ、罪深い私を哀れんでください」この祈りを通して、罪の現実の只中に立つキリストの十字架を仰がせていただきましょう。

「ただ、神の恵みにより、キリストイエスによる贖いのゆえに、
                    価なしに義と認められるのです。」(ロマ3:24)                       


祈り

「主よ、哀れんでください」この真実な祈りを祈るものとしてください。

     

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