9 ロ−マ人の手紙  題「信仰に生きる喜び」  2002/12/19
 

「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」
ロマ2:28−29)

偶像礼拝、自己義認の罪について語った後、パウロはいよいよユダヤ人の罪に触れてゆきます。2000年前のイエス様やパウロの時代、ユダヤ民族は自分たちは神に選ばれた特別な民族であると言う「特権意識」あるいは「選民意識」をもち、他の民族を異邦人と呼び、彼らは神の怒りと裁きの下にあると軽蔑していました。そうした特別意識を支えていたのが、自分たちには「モーセの律法」が与えられているという自負心と先祖アブラハムの時代から受け継がれてきた「割礼の儀式習慣」でした。

イスラエル民族の偉大な解放者モ−セに神が与えられた「10戒」を中核とする、モ−セの律法は、旧約聖書の中で最も重要な位置を占めています。律法はイスラエル民族が、「神と神のみころを知るため、最善なものを判断するために神から与えられた」偉大な賜物でした。ですからパウロも律法は「神の御心を知り、なすべきことを教えられ、知識と真理の具体的な形」(18・19)であると評価し、ほんらいこのようなすばらしい賜物を与えられたユダヤ民族は、異邦人世界のための祝福の基として「闇の中にいる者の光、おさな子の教師」(20)と呼ばれる栄光ある勤めを果たすべき存在とされていたのです。

しかし彼らの失敗は神からのすぐれた賜物である律法が与えられていながら、律法の精神に生きることができず、現実の行いは異邦人と同様、罪に堕落してしまったことにありました。さらに、自分たちは律法を与えられている特別な民族だから、神の怒りからのがれることができると高ぶっていたことにあります。そこでパウロはユダヤ人の宗教的な誇りを砕き神の前にひれ伏す者へ導こうとしました。「神にはえこひいきはありません。律法を聞く者が正しいのではなく、律法を行う者が正しいのです。」(2:13)

割礼という宗教儀式はユダヤ人にとって最も重要なものでした。ユダヤ人が民族の父祖と仰ぐ、アブラハムが神様の約束を信じて生きる契約を立てた時に、自分と息子イシマエルさらに一族男子に割礼を施したのが始まりでした。男性の性器の皮の一部を切り取って血を流し、「自分の命をささげます」という神への服従を象徴する特別な契約のしるしとしたのです(創17)。そしてモ−セの律法によって、イスラエル男子はすべて生まれて8日目に割礼をうけることが定めらました(レビ12:3)。

たとえユダヤ人の血筋の中に生まれても、割礼を受けていなければ、ユダヤ人とはみなされず、ユダヤ人の共同社会から排斥されました。ですからイエス様も両親が八日目に割礼を授け(ルカ2:21)、パウロもユダヤ人として割礼を受けていました(ピリピ3:5)。

ところがこの割礼も、生後まもなく割礼を受けたという事実そのものがあたかも神の怒りから逃れることができる絶対保障かのようにみなされるようになりました。「割礼を受けているのだから安心だ。割礼は神の民に加えられた目に見える保障だから、これで神の怒りから逃れることができる」と、目に見えるしるしや制度の中に救いの根拠を置き、神との生きた信仰を失ってしまっていたのです。

すでにユダヤ人の中に見られたこのような傾向を預言者エレミヤは繰り返し警告しました。

「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」(エレミ4: 4 預言者エレミヤは体に割礼を受けただけではなく、何よりも神に従う心の割礼を受けよと民に呼びかけたのでした。

パウロは、「律法を守るならば割礼にも意味があるが、律法に背いているならば無割礼と同じです」(25−26)と強い口調で指摘し、結論的に「人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく御霊による心の割礼こそ割礼です。」(29)と言いました。ユダヤ人が律法や割礼をよりどころとしても、それは彼らが神の裁きをふせぐ盾にはならないこと、隠れ家にはならないことを明らかにしたのです。

神の怒りと罰から逃れることができる唯一つの隠れ家、罪人である私たちの逃れ場は、イエスキリストとカルバリの丘の十字架のもとにのみ用意されています。ユダヤ人も異邦人もひとしく生ける聖い神の前には弁明の余地のない罪人にすぎません。神は割礼が有ってもなくても、十字架にかかり私たちの罪の身代わりとなって死んでくださったキリストを救い主として信じるかいなか、その信仰をごらんになっておられます。

「この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」(ローマ3: 30

「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」(コロ2: 11 

本当のユダヤ人は律法の精神に生き、律法が教える神の御心に適った善い業に励み、「心の割礼に生きる」ユダヤ人ですとパウロは言いました。神様は私たちの外面ではなく内面をごらんになっておられます。私たちクリスチャンもまた、洗礼を受けたから安心と心をゆるめてしまい、キリストが願われる善いわざに励むことに怠惰になってはなりません。

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」(エペソ2:10)

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)

善い行いとは、愛によって働きかつ信仰から生まれる業です。イエス様ならばきっとこうなさっただろうなと思いながら神様と教会とこの世にお仕えすることです。神と隣人への愛が動機になっている働きはすべて善いわざです。クリスチャンは善いわざに励むことにおいて熱心でありたいものです。愛はかならず犠牲を伴います。善いわざかいなかそれはどれほど愛の犠牲が伴うかで量られます。何の犠牲も伴わない愛のわざなどは存在しません。犠牲を惜しんでいては愛の業に生きることなどできません。愛は犠牲を求めます。しかし信仰がそれを喜びに変えてしまうのです。大切なのは愛によって働く信仰なのです。

クリスマスは神が最大の愛の贈り物を私たちにささげてくださった日です。神はその一人子をこの世に遣わしてくださいました。神の御子がこの世で幸福な日々を歩むためではありません。十字架にかかり苦しみを味わい罪人の罪を背負って身代わりに死なれるためでした。それは罪びとを深く哀れむ神がなせる最も美しい愛の業でした。私たちもクリスマスを前に、小さな愛の業に生きるものとされましょう。イエス様の愛を知りながら、私たちが愛の業に生きることができないのなら、それはユダヤ人と同じ道を歩むことになります。   「いつまでも続くのは信仰と希望と愛です。」(1コリント13:13)


祈り

私たちの内側をごらんになられる神様、私たちの思いと働きとが一致しますように、私たちを助け、必要な力を祈りのうちに与えてください。割礼も洗礼もそれ自体が救いの岩、隠れ家とはなりません。イエス様だけを永久の救いの岩、隠れ家として、仰ぐ者として下さい。

     

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