2014年度 主日礼拝
  2014年8月24日




私たちは神の家族です
使徒28:11-1


囚人としてロ−マに護送されるパウロは、地中海を航海する途中、大きな嵐に遭遇し、船が漂流してしまいました。その結果、約3か月かかりましたが、ついにロ−マに到着しました。

ロ−マ市内までまだ80kmもあるというのに、「アピオ・ポロ」までローマ教会の兄弟たちが出迎えてくれました。さらに53km手前の「トレスタベルネ」においても、兄弟たちがパウロを出迎えてくれました。「出迎える」と訳されたことばは「公式の歓迎会」を指す言葉だそうです。つまり、ロ−マ教会の兄弟たちが、鎖につながれた囚人であるにもかかわらず、パウロを大歓迎して迎えてくれたのでした。ルカはこの時の感動を「パウロは彼らに会って神に感謝し、勇気づけられました(15)」と記しています。

さらに、ロ−マ市内では護衛兵の見張りがついているものの、パウロは自分だけの家に住むことが特別に許可されまし(16)。そのために、多くの兄弟姉妹が比較的自由にパウロを訪ねることができました。パウロの念願がついに実現し、ロ−マ教会の兄弟姉妹もパウロの教えを直接聞けるという幸いを分かち合うことができました。ここに、パウロとロ−マ教会の兄弟姉妹の深いきずなを思い見ることができます。

「いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」(ロマ110-12)

1.    教会は互いに励まし合う共同体です

9月28日(日)は、バプテスト教会創立30周年記念礼拝をささげようと今、準備を進めています。今日は、パウロとロ−マ教会の兄弟姉妹の交わりを通して、改めて共同体としての教会の特質を学びたいと願っています。

旧約の民であるイスラエル民族には、モ−セを通して「10戒」と呼ばれる戒律規定が定められていました。いわばイスラエル民族という共同体の基本憲法と言えます。一方、イエス様を信じる共同体であるキリスト教会には、モーセ律法に代わる新しい一つの戒めが与えられました。それは「愛の律法」「愛の戒め」と呼ばれ、キリスト教会の基本憲法となっています。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ
1334-35

イエス様が教会に与えられた唯一の「戒め」は「互いに愛し合いなさい」という兄弟愛の勧めでした。しかも、互いに愛し合うことこそが、どんな奇跡や病気からの癒しにまさって、偉大な証となり、人々の心をとらえるものとなるであろうと明言しておられます。

「兄弟愛」こそが最大の証しであり、イエス様がが生きておられるという証しになるのです。教会の最大の宣教に伴うしるしは「兄弟愛の実」にあるのです。

先週のNHKの大河時代劇ドラマでは、ついに、黒田官兵衛が、高山右近の導きでキリシタンに入信するシ−ンが放映されていました。大阪城建築に携わり、辛苦を分かち合った二人の武将は、強い絆で結ばれていました。そして、戦国時代に生きる2名のキリシタン武将のシメオン官兵衛とジュスト右近の間には、さらに深い兄弟愛が結ばれたのでした。

この兄弟愛について、パウロはロマ12:1節以下において、具体的に教えています。

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」(ロマ1210-13

「勇気づけられる」という表現は聖書的なことばだと思います。この世の中では、出会うたびに傷つけられる、気落ちさせられる、話すたびに否定される、そんな関係があり得ます。けれども、教会の中ではそうであってはなりません。会うたびに互いに元気づけられ、励まされ、癒され、信仰的に励まされる、そうありたいと願います。

2.    教会はキリストを信じる者の共同体です。

パウロはロ−マでもまず、ユダヤ人たちにキリストの福音を語りました。市内のパウロの家に多くのユダヤ人が招かれ、話に耳を傾けました。パウロも朝から晩まで、語り続けました。神の国について語り、イエスが救い主であることについて証をし、説得しました。その時、パウロの話しを聴いたユダヤ人たちが大きく2つに分かれました。「信じる者と信じようとしない者」に分かれたのでした。神様の側から言えば「ふるい分け」が行われたのです。神のことばが語られるとき、福音が語られるとき、イエスの名が語られるとき、信じる人と信じない人との間に分離が始まります。初めらから2種類の行先が運命的に決定されているわけではありません。罪の赦しと救いの扉は、最後の最後まで開かれています。そのことは、残りの人生がわずか数時間しか残されていない十字架の死刑囚の救いの物語において典型的に例示されています。イエス様に精いっぱいの信仰告白をしたことによって、この犯罪者は「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる」(ルカ23:43)と、永遠の命と神の国を受け継ぐ恵みに招かれました。ところが、もう一人の犯罪者は最後まで世間を恨み、神をののしり、怒りと憎しみのうちに人生を終えていきました。

チャンスは神様の恵みの中で、最後まで残されています。救いの門は最後まで開かれています。しかし、福音を聴いて信じ・受け入れる者とそうでない者との、永遠の分かれ道は確かに存在するのです。

このことから、教会は、福音を聴いて信じた者たちの信仰の共同体であることがわかります。単なる組織的な宗教団体のようなものではなく、キリストの十字架の赦しを受け、永遠のいのちによって結ばれた信じる者の共同体であり、その永遠の絆のゆえに、パウロは「信仰による家族」「神の家族」とも表現しています。

ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」(ガラ6:10)
こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」(エペ2:19)

実は、イエス様ご自身が、弟子たちに向かってこのように言われました。「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ1250)。イエスキリストを信じる者は、みな「私の家族」と呼ばれると約束してくださっています。そして「神の家族」こそが教会であり、信仰による共同体なのです。

有名な韓国スタ−がファンに向かって「みなさんは私の家族です」といったそうです。彼のこのことばがファンの心をわしづかみにし、ファンはますます心酔したとのことです。家族関係が壊れ、絆が薄れていくなかで、たとえ理想であっても疑似家庭であってもよいので、「家族」を願う潜在的な渇きが日本人の中にはあるのかもしれません。

教会は信仰の共同体であり、神の家族です。信仰によって結ばれた家族、兄弟姉妹なのです。血による関係は、残念ながら死をもって断ち切られます。しかし、死をもっても断ち切れない「永遠の家族の絆」、それが信仰者の交わりであり、神の家族の真の強さなのです。

教会には、信仰によって結ばれたもう一つの家族が、神の家族が存在し、一人一人を見守り、励まし、勇気づけてくれているのです。

旧約聖書から引用しましょう。
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」詩篇1331

共に住むという動詞は、共に座って食卓を囲むという意味をもっているとのことです。食事を共にし、共に語り合い、共に支え合う、それが兄弟愛の姿なのです。家族の愛の姿なのです

聖書の中に「共に」という言葉は484回、「共に集う」という言葉は97回示されています。日曜日の朝、共に集まり、共に礼拝し、共に歌い、共に感謝し、ともに交わり、共に喜び、共に涙し、共に助け合い、共に成長する・・・教会にはそのような家族愛が、イエス様の愛に満たされて息づいています。

                       そして私たちは、神の家族の中に「失われた真の安らぎ」を見出していただきたいと、心から願っています。



   

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