2014年度 主日礼拝
  2014年8月10日




マルタ島での2つの奇跡 
使徒28:1−15

1. マルタ島での2つの奇跡

台風が近畿圏を直撃し、風雨がたいへんきつい日曜日の朝ですが、驚いたことに高松・広島・金沢から3名の方が、こうして礼拝に出席されているという「奇跡的な日」です。帰路の安全を祈りつつ、神様に感謝します。

さて、囚人となったパウロを乗せた船は、ローマに向かう途中、激しい嵐に遭遇し、14日間の漂流ののち、マルタ島に打ち上げられました。激しい波で船体は破壊され、船内に留まることは危険なため、乗客は海に飛び込み、岸に泳いで渡りました。こうして、全員276名、ひとりも命を落とすことなく無事、上陸できました。よみがえられたイエス様のお約束がこうして成就したのでした。信仰とは、神様の約束の言葉は必ず成就する(使徒2722-24)と、信じきること(ロマ420-21)であり、その信仰のゆえに希望(ロマ55)を、クリスチャンは維持することができることを私たちは学びました。

さて、パウロたちの一行が、寒さを防ぐため、岸辺で薪を燃やして暖をとっていたときのことです。マムシがはいだしてきてパウロの手にかみつきました。正確には「絡み付いた」とあります。マムシにかまれたパウロを見て、島の人々は「この囚人はよほどの悪党に違いない。ここまで来てマムシの毒で死ぬことになるとは」(4)と思いました。マムシにかまれるとやけ火箸をあてられたような激痛が走り、毒がまわると丸太のように太く、真っ黒に腫れ上がり、やがて脱水・腎不全で死亡に至る場合も多いとされています。必ず病院で治療を受ける必要があります。

ところが、パウロは、マムシにかまれた後も、苦しむことも腕がはれあがってしまうこともなく普通に飲食を続け、周りの人々と会話を続けていましたから、島の人々は驚き「この人は神さまだ」(6)と騒ぎ立てはじめました。

さらにマルタ島には多くの病人がいたようです。島の首長ポプリオの父の病気を、パウロは手をおいて祈って癒しました。3か月間、島に滞在している間に、多くの島民の病が癒されました。もちろんこの時、「私たち」とありますから、医者のルカも積極的に医療活動に奉仕していていたことを忘れてはなりません。

パウロを通して、マルタ島において、「毒蛇にかまれても死なない、病人が癒される」という、イエス様の約束が現実のものとなりました。

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18

ここに記されている5つの奇跡的な行為は、「私の名によって」(17)と強調されているように、復活されたキリストの権威と全能の力を証明するためのものです。

「信じる人」はすべてのクリスチャンを自動的に指すわけではなく、「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ1620)と説明されているように、福音の宣教にともなうしるしであると限定して明記されています。ですからこうした奇跡的な行為をパウロ個人のカリスマ・霊的賜物と個人化してしまうことには慎重であるべきかと思います。

カリスマ的な賜物や存在をアピ−ルすれば、好奇心の強い人々は多く集まることでしょう。しかし、パウロはマルタ島に3か月滞在したにもかかわらず、特に目立った宣教活動をしていません。「神様扱い」されることを懸命に避けたのでしょう。むしろ島の人々の「尊敬」を得るような地道な活動に専心していたようです。

ちなみに、キリストの名による「新しいことば」を「異言」を指すとダイレクトに解釈する立場の人もいれば、「異言を含めた知識のことばや知恵のことばや預言のことば」と幅広く解釈する人もいます。さらには「福音を伝える宣教地の言葉すなわち外国語」との解釈もあれば、「古い人の特徴でもある怒り・恨み・ねたみ・悪口・復讐・神への冒涜というような不信仰なことばではなく、キリストにある新しい人の特徴である人への赦しのことば、神への感謝のことばと賛美のことば」を指していると解釈する人もいます。さらには「真理のことば、すなわち福音そのもの」を指すという解釈もあります。

いずれにしろ、復活されたキリストの名には、人知を超えた大いなる権威と力が秘められているのです。「私の名によって」と強調されているように、復活されたキリストの全能の力のゆえに、信じ、キリストの名を宣教する者には、みことばの確かさを証明する多くのしるしがともなうのです。そのように理解しましょう。

人を崇めることは偶像礼拝と等しい罪と言えます。賛美されるのはただ一人、「よみがえられた主イエスキリスト」だけなのです。主イエスは今も生きておられます。よみがえられた主イエスの名には大いなる「権威」が与えられています。

「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、
ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ29-11

2.    私の人生における神のみわざ

マルタ島では奇跡が起こりました。考えれば、クリスチャンの生活にも多くの不思議な出来事が伴います。それを私の人生の奇跡と呼ぶ人もいます。不思議な出来事と呼ぶ人もいます。私は「わくわく感」(期待)と表現しています。よみがえられ今も生きておられるイエス様とともに歩む人生ですから、そこにはいつも人知を超えた神の御業が伴います。私たちの立場からいえば、「わくわくドキドキ」体験と言えます。「次にどんなことをイエス様はしてくださるのだろう。この次にはどんなことが待っているのだろう」、そんな期待がいつも伴っているのです。ですからこれほど楽しい日々はありません。

「私が願う」ようなことや「私がこうあってほしい」と期待することとは異なることも多くありました。でも結果は、いつも「主がなさることは最善、GOD IS SO GOOD」でした。
ですから、次の御業が「わくわくドキドキ」体験として、とても待ち遠しいのです。

私が22歳で救われた時から、63歳の今に至るまで、クリスチャンとしての歩みの中で、多くの恵みと折にかなった助けと「私の人生の軌跡・不思議」と呼べるような出来事を経験してきました。

その中で確信していることは、「私の神は、今も生きておられる」ということです。そして、「ご自身の愛と真実に基づいて最善の導きをしてくださる」ということです。ですから私にとっての奇跡も、神様にとっては「愛の必然性」なのでしょう。私にとっての「わくわく」(期待)は、神様にとってはよろこびなのでしょう。

イザヤはやがて誕生する救い主の名をこのように預言しました。  
「その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」(イザヤ97

台風が直撃している日曜日の礼拝に、いつもとかわらず出席しているみなさん、一人一人の人生にも、キリストを信じ、キリストの名を伝える者に伴う、「多くの恵みの御業、神の奇跡、不思議な出来事」が満ちておられることとと思います。一度、証し集会を開いて、それぞれの「不思議」を分かち合いたいとさえ願っています。

 「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ1620



   

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