2014年度 主日礼拝
2014年3月16日

題「麗しいイエスの御名によって」
使徒19:8-20

エペソの町で、パウロはユダヤ人の会堂ではなく、ツラノの講堂で2年間に渡り、毎日、福音を語り続けました。ツラノの講堂とはツラノという人物が教えている教室を指すことばでおそらく誰もが気軽に出入りできる公会堂のようなものではないかと言われています。その結果、「主のことばは驚く程広がり、ますます力強くなった」(1920)のでした。パウロの2年間にわたる宣教と教育によって、エペソ教会はますます発展し、多くの人々が信仰に導かれました。

心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)と、聖書に記されているように、みことばには魂を救う力があります。今日の箇所には、みことばの力と驚きを示す2つの大きな出来事が取り上げられています。

1.    驚くべく奇跡が行われました

パウロの身につけている前掛け(天幕作りの為の作業着)と汗を拭う手ぬぐいを病人にあてる、とたちまち病気は癒え、悪霊は消え去ってしまいました。目撃した人々はイエスの御名に驚嘆しました。すると各地を巡り歩く魔術師グル-プであった祭司長スケワの7人の息子たちが、これは効き目があると考えさっそく真似を始めました。どこでもすぐに真似をするコピ−人間は多いものです。

魔術師たちが、パウロが宣べ伝えている「イエスの名」によって悪霊を追い出そうとしたとき、「イエスも知っている、パウロも知っているが、お前たちは何者だ」と悪霊に疲れた男性が彼らに飛びかかり、さんざんな目にあわせました。危害を加えられた彼らはいのちからがらその場から逃げだしました。この出来事は街中に知れ渡ることとなり、エペソの住民は改めて「イエスの名」に対する恐れと畏敬の念を抱いたのでした。

「イエスの御名」には権威があり、力があります。
すべての罪人は、主イエスの名においてバプテスマを受けます(使徒238
主イエスの名において私たちは祈ります(ヨハネ1624) 
主イエスの名において病は癒されます(使徒36
すべてのクリスチャン生活はキリストの名のもとで営まれます。なぜならば、主イエスこそ主の主、王の王となられた大いなるかただからです。

「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ29-11

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました」(エペソ120-21

イエスの御名は、イエス様の持つ「最高権威」を表しています。権威の裏付けがなければ絵に描いた餅と同様、実質的な力はともないません。

子供がおもちゃの100万円札を束にして遊んでいました。残念ながらおもちゃのお札を山ほど束にして積んでもチョコレ-ト1枚買うことはできません。本物の1万円札には表には「総裁之印」、裏には「発行局長」の刻印が押されていますから実質的な価値を持つのです。おもちゃはおもちゃ、コピ−はコピ−に過ぎません。

では、キリストの持つ権威にともなう力はどのように働くのでしょうか。もし権威が傲慢や高ぶりと結びつけば「罪」となります。聖書はキリストの権威はかならずへりくだりと結び付けられ、謙虚さこそが力の源泉になることを教えています。ある先生から聞いた印象深い証しを紹介します。

牧師会で一人の経験豊かな先生が証ししてくださいました。お店を経営されているご主人が電話帳を見て、教会に奥さんを連れて来て、ぜひとも助けて欲しいと願われたそうです。フィリピン出身の奥さんが精神的に混乱を来たし、悪霊に疲れたような状態を示しています。先生も初めての経験だったそうです。イエスの名によって「悪霊よ、出て行け」とおそるおそる先生は最初、祈ったそうです。本で読んだことはあっても初めて経験する類の祈りだったからです。すると恐ろしい男性の声で、「お前じゃだめだ」と彼女がうなりながら返答したそうです。どれだけ熱心に祈ってもなんの変化もありません。疲れ果てるやら情けないやらで、とうとう先生は「イエス様、私の力ではどうにもなりません。無力な私をおゆるしください。けれどもこの苦しんでいる女性をどうぞ憐れみ助けてあげてください」と、涙ながらに祈ったそうです。するとその時、彼女の顔が普通の顔に戻り、おだやかな表情と普通の女性の声になって発作もおさまりました。一体、何が彼女の身に起きたのか先生には理解できませんでした。牧師の祈りの力ではなく、キリストの力が働き、彼女に平安をもたらしたことだけははっきり自覚できたとのことでした。

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(2コリント129-10) 

自分の熱心さや能力に頼るのでなく、自らの罪深さを自覚し、無力さを受け入れ、全面的にキリストの御名に委ねて、低きにくだるとき、キリストの恵みの力がそこに初めて豊かに働くことが聖書に約束されています。

自らの名をイエスの御名のもとに、自分の肉の力をイエスの御力の下に置くとき、イエス様ご自身が御霊とともに豊かに自由に働かれるのです。カトリックの神父であるヘンリ−・ナウエンが「主の勝利は上に登る道にではなく、下に降りる道にある」と語っていますが、まさにその通りであると深く教えられます。

2.    リバイバルが起こりました

みことばが広がりがもたらした第2の大きな出来事はリバイバル・クリスチャンの覚醒でした。みことばの光に照らされて、エペソに住むクリスチャンたちがひそかに隠し持っていた占いの書物等を町の広場で火の中に投げ捨てるという出来事が起きました。火に投げ込まれた書物類の金額は銀貨5万枚、日本円にして400万円にも達したと記録されています(191819)。

エペソの人々はアルテミス女神を町の守護神と信じ、町中いたるとことに女神の偶像を祀っていました。特にアルテミスの御札はエペソ人の間では飛ぶように売れていました。小さなパピルスか羊皮紙に、呪文が記され、その御札を袋にいれて厄除けとして、販売されていたのです。

日本で言えば、成田さんの交通安全祈願の御札のようなものと考えれば納得がいくかと思います。一体、どれぐらいの御札が成田山で販売されているのでしょう。千葉県成田市の成田山新勝寺には、毎年正月三が日に300万人の参拝客が押し寄せるそうです。「1年間に納められたお札(護摩札)を燃やし、本尊の不動明王の御利益に感謝する「納め札お焚(た)き上げ」が行われたそうです。山伏姿の僧侶が木を組み上げた炉にたいまつで点火。赤い炎が立ち上ると僧侶らが読経し、約5万枚のお札を投げ入れた」と、日経新聞2012年12月28日号に記されていました。袋入りのお守りが1枚800円だそうですから、5万枚で合計総額4000万円になります。ためしに計算してその結果にたいへん驚きました。いったい販売された数はどれぐらいになるのでしょうか。エペソの町の広場で燃やされた占いの書物類の総合計が400万円に達したとしても不思議ではないと思いました。

さらに驚いたことは、エペソ教会のクリスチャンたちが、これほど大量の御札や占いの書書物類等を隠し持っていたという事実です。それほどエペソの住民にとって、アルテミス女神を祀る宗教や宗教的慣習は日常生活と切り離せない密接な関係がありました。深く結びついており、日々の生活の中であたりまえのこととして慣習化されていたのでしょう。京都行けば神社仏閣が建ち並び、繁華街では若者たちを中心に「占いの館」なるものが大繁盛しています。占いや迷信の類はエペソの住民だけでなく、私たち日本人の日常生活の中にも深く入り込んでいます。クリスチャンの中にも、さまざまな占いごとや迷信の類をひそかに取り込んでいる人がいないとはかぎりません。

しかしながら、私たちが確信したいことがあります。占い関連グッズが焼き捨てられたのは、パウロが強制的に命令したからでもなく、クリスチャン家庭を訪問して持ち物検査したわけでもありません。偶像礼拝をしてはならないと声をはりあげて厳しく指導したからでもありません。イエスの麗しい御名が語られ、その権威が認められたところにおいて、おのずと偶像はとりのぞかれ、隠されていた出来事が明らかにされ、自発的な悔い改めと聖別がクリスチャンの中から始まったということです。いわば信徒の中に信仰の覚醒が始まったのでした。

ある意味でこの出来事はリバイバルの原点といえるのではないでしょうか。

みことばが語られ、受け入れられ、イエスの御名が崇められ、その権威の前に服していくところに、リバイバルが起きるのです。クリスチャンの覚醒の時が始まるのです。惰性的な信仰生活、名目だけの信仰生活という眠りから目覚める時がくるのです。

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」(ロマ1311-13

エペソの人々の間に、このように、「主のことばは驚く程広がり、ますます力強くなった」(1920)のでした。

願わくはこのようなみことばの恵みの力が、この宇治の町においても再現されますように。イエスの麗しい名が崇められますように。
                                                                          以上



   

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