2014年度 主日礼拝
2014年3月9日

題「信じたとき、聖霊を受けましたか」
使徒19:1-7


第2回目の伝道旅行を終えアンテオケ教会に戻ったパウロはしばらくすると再び第3回目の伝道旅行に出発しました。「神のみこころならば再び戻っていきます」とエペソ教会の兄弟姉妹に別れを告げたパウロでしたが、再びエペソに戻ってきました。そしてその後、実に3年にわたってこの街に滞在し教会づくりに専念することとなりました。その中でパウロにとっての大きな仕事の一つはイエス様を信じた人々の霊的な成長、すなわち教育にありました。

パウロはエペソ教会に属している12人ぐらいの小さなグル−プとあるときに出会いました。ところが彼らと話しているとパウロは何か違和感を感じました。そこでパウロは「あなたがたは信じたとき聖霊を受けましたか」と質問しました。パウロが感じた違和感とは、彼らの中に「聖霊の賜物」を感じなかったからでした。すると彼らは驚いて、「聖霊が与えられるとはどんなことなのですか」と聞き返してきました。さらに詳しく話を聴くと、この12人ぐらいのグル−プはかつてユダヤ国に住んでいた時、偉大な預言者であったバプテスマのヨハネの教えを聴き、ヨハネからヨルダン川で「悔い改めのバプテスマ」を受けた人々であることがはっきりしてきたのです。

イエス様が伝道の生涯に立ち上がられる前、バプテスマのヨハネが現れ、ヨルダン川で多くの人々に洗礼(バプテスマ)を授けました。それは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれるように、罪を悔い改めて救い主の到来を待ち望むための洗礼でした。ですから彼らは、イエス様の教えを知らず、イエス様の弟子たちが語る福音も知りませんでした。使徒たちによってイエスキリストの名によって施されるバプテスマも知らなかったのでした。アクラやプリスキラやテモテといったクリスチャンと交わりを持ってはいましたが、イエスキリストの名によって洗礼を受けてはいなかった人々だったのです。

クリスチャン生活の原点はペテロの説教に明確に教えられているように、神様抜きの人生に対して悔い改め(方向転換すること)、神様のもとに立ち返り、神様が遣わされたまことの救い主であるイエスキリストを信じ、キリストの名において洗礼を受けることです。

そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)そうすれば2つの神様からの贈り物である「罪の赦し」と「賜物としての聖霊」を受けることができるのです。

そこでパウロはイエスキリストの福音を教え、彼らがイエスキリストの名によってバプテスマを受けるように導きました。すると、彼らも聖霊の注ぎを受け、キリストとの親しい交わりへ招かれたのでした。

1.    イエスキリストの名によるバプテスマ

イエスの名によって洗礼を受けることはクリスチャン生活の第1歩となります。洗礼そのものはイエス様を信じようと願うならばいつでも受けることができます。洗礼を受けること自体に特別な資格や条件があるわけではありません。聖書の教えの順位は「信じて、バプテスマを受ける者は救われる」(マルコ1616)ですから、イエス様を救い主と信じていこうとの志があればそれで十分なのです。洗礼までのハ−ドルを高く設定してしまうと、息切れを起こしてしまったり、信仰生活はある一定の基準を超えなければならないものだと最初から意識づけられてしまうことになります。洗礼はいわば「入園式」、なにもわからないまま素直な心でひとつひとつ学びを積み重ねていくことにほかなりません。洗礼式まで一生懸命勉強して、洗礼が済んだら学ばなくなるというのは本末転倒です。バプテスマを受けて神様の子供とされたのだから、これから生涯、大いに楽しく学びを深めていくことになります。
第一歩を踏み出すことがなければ、二歩目も三歩目もありえないのです。教会で開かれています聖書入門クラス・バプテスマ準備クラスにどうぞ積極的にご出席ください。

2.    バプテスマを受けたときに注がれる神の御霊について

神様からの豊かな贈り物として「聖霊」が与えられると聖書は約束しています。では具体的にはどのような内容なのでしょうか。5つの代表的働きを紹介します。

1.   聖霊によって信じる者が新しく生まれ変わることです。これを新生体験といいます。

あるときイエス様は、救いを求める老学者ニコデモに対して、「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」(ヨハネ35)と教えました。パウロ自身もコリント教会に宛てて「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)とキリストにあって人は新しく創造されるという新生について語っています。人間的な決心や努力によって「自己改革」していくのではなく、神の霊のお働きによって「うちなる命の変革」が行われるというのです。自分が「変わる」のではなく、神の霊によって「変えられる」のです。

2.  聖霊なる神様が心の内に住んでくださいます。これを聖霊の内住といいます。

ではどうして変革が成し遂げられるのでしょう。よみがえられ今も生きておられるキリストが信じる者の心に住んで下さるからです。聖霊は神の御霊ですが、キリストの御霊とも呼ばれています。聖霊が住まわれることと、よみがえられたキリストが住まわれることは同じできごとの異なる表現です。すべてのクリスチャンは、イエス様を心の中に持っています。心になにももっていない人生と、心にイエス様をもっている人生とは大違いです。

りっぱな家屋敷も、人がそこに住んでこまめに掃除や風通しをしなければ、やがてホコリやゴミや湿気やカビやシロアリなどによって荒れ果て廃屋になってゆきます。同じように、イエス様が心に住んでくださらなければ、私たちの生まれながらのこころは罪に汚れ、ますますエゴイズムの塊となり、荒れ果、いつしか滅びに向かうこととなります。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ロマ8:9-11)

3. 聖霊の実を結びます  

心に住まわれるキリストは、ご自分のご性質へと私たちを導いてくださいます。イエス様ご自身のご性質に似るように私たちの生まれながらの古い性質を変えて下さるのです。むろん、洗礼を受けた日に劇的な大変身を遂げるわけではありません。罪人が天使に突然、姿替わりするわけではありません。しかしながら、何かが着実に変化してきます。心に住まわれるイエス様がなんの変化も影響ももたらさないとは決して考えられないことです。
パウロは「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラ522-23)と、聖霊によって心に変化が起き、イエス様の愛、喜び、平安などに満たされていく、「変化、成熟」へのプロセスの素晴らしさを教えています。

イエス様を信じる以前、私たちはどれほど冷たい愛の中に生きていたことでしょう。考えることはいつも自分のことばかり、いつでも世界の中心は自分。周囲の人々への愛も配慮も関心もたず、自分が幸福になれば人を利用しても、踏み台にしても、切り捨てても構わないとさえ考えていたのではないでしょうか。愛することよりも愛されることばかりを要求し、憎むことはいつしか身につけても赦すことをなにも学んでこなかった荒れた人生ではなかったでしょうか。イエス様は永遠の神の愛の中に自らの33年半の生涯を生き抜かれました。あの十字架の苦悩の中でさえ「父よ、彼らを赦してください」と祈られたお方です。そのイエス様の愛が私たちの心にも惜しみなく分かち与えられるのです。真の意味で、愛の充足が始まるのです。

4 奉仕のためのさまざまな賜物を与えてくださいます

たいへん興味のあるテ−マですから詳しくは別の機会に学ぶこととしましょう。聖霊は神の子供たちが神様に心から喜びをもってお仕えすることができるように、奉仕のためのさまざまな賜物を分かち与えてくださいます。それはもって生まれた才能以上の力を発揮する場合も多くあります。ちなみに第1コリント124-12には9種類の賜物が、奉仕のための能力として紹介されています。初代教会において特に顕著だったのは異言や予言や癒しや奇跡の賜物のようでした。異教社会の中で、キリストの名をしらない人々に、救い主キリストの名とその権威と力を証しするためには、これらのしるしを伴う特別な賜物はもっとも大きな効果と影響力があったからだと思われます。

5.    宣教のための力、証しのための力

パウロは愛弟子である若きテモテにこのような励ましのことばを贈っています。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(2テモテ1:7)。人を恐れず、ときには迫害を恐れず、キリストの福音を大胆に宣教していく上で求められるのは霊的な力でした。しかも愛と慎みの霊に満たされている力です。イエス様は弟子たちに世界宣教命令をくだされましたが、そのときに「聖霊による力」がそこに伴うことを約束してくださいました。誰であっても、聖霊に満たされるとき、宣教と証しのための大いなる力、臆病の霊ではなく力と愛と慎みの霊を豊かに受けることができるのです。

ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:5.8)

まとめ
このような豊かな賜物としての聖霊が信じる者たちに与えられるのですから、贈り物を受ける側にも心備えが2つあります。

1.    受けた賜物の良い管理者であることです

贈り物を乱暴に粗末に扱う人もいれば、いつまでも大切に宝物のように丁寧に扱う人もいます。贈り物は神様から与えられますが、与えられた贈り物をどのように大切にできるかは、ひとりひとりの管理能力にかかっています。ですからペテロはこのように語りかけています。
「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(1ペテロ410
受けていないものを嘆いたり、他人と比較して不満を抱いたり、せっかく与えられているにもかかわらずその価値を発見できず生かしきれていないならば、これらはすべて「管理不足」と言えます。良い恵みの管理者とはいえません。 

2.    御霊に満たされ続けることです

イエスキリストの名によってバプテスマを受けたとき、同時に私たちは賜物として「聖霊」ご自身を心に迎えました。イエスキリストの名によって水のバプテスマを受けることと、聖霊を受けることは同時です。しかし聖霊を受けることと聖霊に満たされることとは異なります。その違いをよく認識することgは大切だと思います。聖霊を受けることは一度限りの出来事であり、神様からの祝福の贈り物です。よみがえられたキリストが私たちのこころを住まい(定住を意味することばが使われています)とし、キリストが心に来てくださることを意味します。
一方、聖霊に満たされるとは、聖霊のご支配に私たちがみずから明け渡していくことを意味します。罪の性質とは「神の主権」を認めずこれを拒否し、「自我の支配権」に固執し続けることです。心の中に来てくださったキリストに、いまだに主導権を委ねず、「自分の好きなようにさせろ」と意地を張っているような状態といえます。私たちがそのような意地を明け渡し、キリストの主権にお任せするようになればなるほど、神様のめぐみが心に満ち溢れます。明け渡した分だけ、聖霊はご支配されるのです。ですから、御霊に満たされるとは生活と人生の主導権をキリストに委任していくことを意味しています。

パウロはエペソ教会の兄弟姉妹に信仰の成熟を願ってこのように懇ろに教えています。
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。  詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(エペソ519-21

マルチン・ロイドジョ−ンズ博士の「御霊にみたされなさい」という名著があります。その中で、「満たされなさい」という動詞は「複数形・命令形・現在形」として表現されていますから、「例外なくすべてのクリスチャンに求められていることであり、なによりも継続性を意味している」と説いています。「あなたがたは一人ももれなく、聖霊に満たされ続けていくことを求めなさい」という意味になります。神の御霊を私たち人間が「満たす」ことなどはできません。神様の恵みの中で「満たされる」つまり「満たしていただく」ことしかできません。それはうちなるキリストに私たちが自らの主導権を明け渡し、キリストに委ね、キリストのしもべとして仕え続けていくことによってはじめて可能となるのです。麗しい兄弟姉妹としての愛の関係、賛美、感謝そして互いに仕え合う喜び、これら人生の良きものはすべて「御霊に満たされる」ことによって実現するのです。酒に酔う(支配される)ことによっては決して得られません。
もし、この世のものでこころを満たし支配しようとしても、結局は虚しさが残ります。しかし、神の御霊、キリストご自身にこころが満たされ、ご支配されていくとき、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が豊かに満ちていくのです。

パウロがエペソ教会で出会った12名のクリスチャングル−プは、イエスキリストの名によってバプテスマを受けることも、賜物としての聖霊が与えられることも知りませんでした。その事実を知ったパウロは、彼らを導きました。そして目が開かれた彼らはイエスの名によるバプテスマを受けたのでした。バプテスマを通して、彼らも復活のキリストと一つに結び合わされ、キリストの御霊を神様からの最大の贈り物として受けることができました。いよいよ、御霊に満たされ続け成長し続けていく新しい人生を始めることができたのです。

私たちはすでにイエスキリストの名によってバプテスマを受けました。したがってキリストの御霊をうちに宿しています。イエス様ご自身が私たちのこころに住まわれ、みむねを実現してくださいます。天の御国に入るその時まで、キリストの御霊に満たされ続け、成長させていただき、イエス様に心からの感謝をもってお仕えしていきましょう。                                                                                              以上



   

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