2014年度 主日礼拝
2014年3月23日

題「本物とニセモンの相違」
使徒19:21-41

銀行員さんたちが偽札を即座に見分けることができるのは、いつもほんものに多くふれているため、指の感触ですぐ違いがわかるからだと聞きました。真実なものは偽りのものをおのずと退けていきます。

さて、エペソの町では、パウロたちの3年以上にも及ぶ宣教によって、多くの人々がイエス様を救い主と信じ、教会に導かれました。そのころ、「この道のことから、ただならぬ騒動が」(1923)持ち上がりました。「この道のこと」とは、イエス様をキリストと信じる信仰の歩みとキリスト教会をさしています。

「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ146

クリスチャンということばはアンテオケの住民がイエス様の弟子たちにつけたあだ名ですが、弟子たちは自分たちを「この道」、イエス様の教えてくださった真理といのちの唯一の道・・を歩む者と呼んでいたようです。このいのちの道に至る門は小さく狭いため見つけにくく、そのうえ、門から続く道も大変狭いため、歩きにくいという特徴があります。けれどもクリスチャンたちは、主イエス様の教えに従い、この狭い道を生涯歩み続けることを志しました。

「 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。」(マタイ7:13)

一方、エペソにはアルテミスの女神を祀る大神殿が町の中心にありました。春の大祭に合わせて、多くの巡礼者たちがアジア中からエペソに押し寄せ、大通りは巡礼者たちで埋め尽くされ、どこもかしこも大賑わいで、熱気に包まれていました。アルテミスはギリシャのゼウス神の娘で、太陽の神であるアポロ神とは双子の関係にあり、全身乳房だらけの姿は、豊穣と出産の女神として崇められていました。さらにエペソの住民はわれわれこそは「大女神アルテミスとご身体との守護者」(35)であると自負していましたから、キリスト教会の伸展を快く思っていませんでした。

そんなおり、女神と神殿のミニチュア銀細工職人たちを一手に仕切っていた顔役のデメテリオという人物が、パウロの教える福音によって「女神の威信が損なわれ、我々宗教産業に関わる者たちも生活がなりたたなくなっている」(25-27)と同業者たちをけしかけ、訴えようとしました。手始めに彼らはパウロの弟子ガイオとアリスタルコを捕え、大劇場へなだれ込み、群衆の面前で彼らをつるしあげようとしました。

すし詰め状態の大集団はいよいよ興奮状態に陥り、なんのために自分たちが集まっているのかさえわからないまま、大声で叫びつづけるという一種のヒステリックなパニック状態に陥っていました。慌てた町の書記官(助役のような立場の人物)が劇場に駆けつけ、異常な興奮状態を鎮めるため、非合法的なこのような大騒ぎを起こしているとロ-マ皇帝と政府に対する騒乱罪に問われ、厳罰を受ける可能性があると説得したため、大群衆はロ−マ皇帝を恐れて興奮状態からやっと覚めて、三々五々解散しはじめたのでした。

キリスト教会の集会には、秩序と平和と神への敬虔な恐れがありますが、この世の宗教や政治的集団の中にはこのような無秩序と混乱に陥ってしまう傾向が少なくありません。アフガニスタンのバーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に指定されていますが、有名な洞窟石像が対抗勢力によって爆破されたことは記憶に新しいと思います。

パウロは偶像について「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。神は人の手によって造られたものにお住みにはならない」(使徒1724)と明確にメッセ-ジを語りましたが、実力でこれを排除せよ、壊せ、捨てされとは言いませんでした。騒動を起こしたわけでも、商売を妨害したわけでもありません。多くの人々がまことの神と救い主キリストを知って、アルテミスの女神信仰からキリスト信仰へと自覚的主体的に移り教会の交わりに加わったというのが事実です。そしてこの道を歩みだす者の数があまりに多くて商売人たちの売りあげが、がた減りするほど強烈な影響を及ぼしたのでした。

ユダヤ教の指導者ヨセフォスは「ユダヤ古代史」において、モ-セ律法の解説で「他のまちまちが神とみなしているような神々を冒涜してはならない、異教神殿に属する物を盗んだり、どの神に供えられたものでも奪ってはならない」との教えを記しています。ですから、初代のキリスト者たちは、力づくで、他宗教を攻撃したり冒涜したり、神殿や偶像を破壊するようなことはしませんせした。彼らは、ただ真実を語っただけでした。まことの神と救い主の存在を証しし続けただけでした。

私たちは熱心さのあまりときには視野狭窄に陥り、戦闘モ-ドにはいって、他宗教を冒涜したり非難したり、排除したりする衝動にかられることがあるかもしれません。他宗教を非難したり、悪口を言えば、その同じ分だけかならずキリスト教への反発・怒り・攻撃として向けられることを理解しましょう。クリスチャンには他の宗教に対して宗教的「寛容」さを示すだけのゆとりがあります。なぜならば本来、存在しないはずの、なんのちからもない、人間の手による偶像の神々などと争っても意味がないからです。むしろ、信じるこころ、求道心、見えないものを信じ受け入れようとする柔らかなこころをそれぞれの信徒がもっていること自体を認め、受け入れ、そこから対話を始めるこころを持ちたいものだと願います。宗教というものはその人の心と人生において大きな位置を占めています。相手が大切にしている信じる心を私たちも大切にしたいものです。愛とはそのような身近なところから実践されるのではないでしょうか。

真実に福音が伝えられ、まことの神の存在が認められていくところでは、おのずとミニチュア細工の品物などを、それがどんなに精巧に造られ、いかに高価であったとしても、だれも必要としません。お土産としての価値はあっても、本物の信仰の対象にはならないからです。金銀で作られ値札が貼られたような女神像や神殿の模型など、こどもじみてだれも買わなくなるからです。本物のダイヤモンドが1個手に入れれば、100個のガラス玉の宝石などだれも欲しいとは思いません。本物を知ればもう偽物は必要なくなるのです。もろもろの偶像はまことの神の前に沈黙するしかないのです。闇は光に勝つことはできません。そして、真理は自由をもたらし、闇から光へ導き、不安や恐れからこころを解き放つことができるのです。

そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)
「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」(エペソ4:15)

「愛をもって真理を伝える」これこそ宣教の本質だと私は思います。

群衆はム−ドや熱狂心から集団を形成し、徒党を組み、興奮し、騒ぎたちます。ときには自分がなにをしているのかさえ見失ってしまうこともあります。しかしクリスチャンはたとえ一人であったとしても静かに「ただひとつの道」を歩みます。その道はこの世の中にあって決して広い道ではありません。誰もが列をなして入っていく大通りでもありません。平坦な道でもありません。しかし、この道は、天の御国にいたる唯一のいのちの道なのです。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、
                              それを見いだす者はまれです」(マタイ7:13-14)

イエス様が十字架の尊い死をもって備えてくださった、いのちの道を、「この道」を、偽物ではない真理の道を、歩んでまいりましょう。

           「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです」(ヘブル10:20)
                                                                                                        以上



   

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