2014年度 主日礼拝
2014年3月2日

題「主のみこころならば」
使徒18:18-22


宣教師パウロのヨ−ロ−パ地方(ギリシャ)を中心とした第2回伝道旅行はいよいよ終りを迎えます。パウロはコリントで出会ったアクラ・プリスキラ夫婦を伴い、アジア州の中心的都であるエペソに戻りました。エペソ教会の働きを彼らに託し、パウロはユダヤの都エルサレム教会に向かいました。諸教会から捧げられた義援金をエルサレム教会に届け、ギリシャ地域の宣教報告をするためでした。エペソの教会ではパウロとの別れを人々が惜しみ「もっととどまるように」願いましたが、パウロは彼らに別れを告げ、急いでエルサレムへ向かう船に乗り込みました。おそらく春の「すぎこしの祭り」までにはエルサレムに到着したかったからではと推測されています。

その時、パウロは「みこころならばまたあなた方のもとに戻ってきます」と挨拶のことばを告げました。

終戦後、GHQ(日本進駐連合国軍総司令部)最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーはかつてフィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官時代に日本軍のフィリピン侵攻によりオ−ストラリアに脱出せざるをえませんでした。そのとき、「I SHALL RETURN 私は戻ってくる」とみずからの強い意思を表明したそうです。

パウロは「主キリストのみこころならばまたあなた方のもとに戻ってきます」と自分の行動を決めるのはキリストご自身であることを明言しています。それはパウロが主イエス様のみこころを常に第一にして従ってきたことを意味しています。この朝は「主キリストのみこころならば」という信仰の告白をご一緒に学びましょう。

私たちは日常生活のなかで常に選択を求められます。小さな選びから人生の岐路と呼べるような大きな選択に至るまで、私たちは選択と決断の連続の中で生きています。「自分のやりたいことをするがやりたくないことはやらない」という主体的な生き方と、「やれと言われたからしかたなく嫌々ながらする」という消極的受身的な生き方のほかに、さらにクリスチャンには「神様のみこころに従う」という第3の道が加わりますから、なかなか複雑と言えます。

私は長い間、J・グラント・ハワードJr./中村寿夫訳『みこころを知り、みこころに従う』(聖書図書刊行会、1979)という本の教えを行動の基本に据えていました。そして、「みことばが示される+聖霊の平安がある+状況が開かれる+よく考えよく祈った+兄弟姉妹の祝福になる」という5つの原則を適用しながら歩んできました。

神様の御心には 「神の定められたみこころ」(神の意志=計画)と「神の望まれたみこころ」(神の意志=期待) の2種類があるとハワ-ド博士は書いています。前者である神の定められたみこころは、人が妨害することはできません。必ず、実現します。主権者である神様は誰とも相談することなく、ご自身の意図されるままに、思うままにすべてを実現されます。環境によって支配されることもまったくありません。

一方、後者である「神の望まれたみこころ」は、神様の子どもとしてふさわしく生きてほしいと神様が望んでおられるご期待といえます。そして人の意志にゆだねられている領域も多くあります。なによりもクリスチャンの数だけあるといっても良いほど個別で多様な導きです。そして神様がそう願われても私たちがその期待に答えることができない場合も多々あります。だからといって神様の罰と怒りにもとに即、置かれるというわけでは決してありません。もし、すべてが神の定められたみこころの中におかれていると狭く考えてしまうと困ったことになります。細かな一つ一つのできごとを「みこころかみこころでないか」とチェックしなければならなくなるからです。これを「みこころ症候群」と呼ぶそうです。夕食はカレ−にするかお寿司にするか、どちらがみこころだろうか・・・など。もちろん一つ一つの生活上の選択をそのように丁寧に祈り求めることを否定するつもりはありません。「しかしながら、みこころでない道を選んでしまったら、その時点でもう失敗だ。間違った道を選んでしまったのだから祝福などあるはずがない。そもそも、みこころの道には試練や困難や苦難があるはずがない。うまくいかないのはみこころじゃなかったからだ。だからすべてをリセットして最初からやり直すしかない・・・」と考えてしまったとしたらどうでしょう。考えれば考えるほどみこころ症候群は悪化増悪していきます。そしていつしか、聖書のことばを「おみくじ」替わりにしてしまい、今日のみこころはなんだろうと、聖書をぱっと開いて目にはいった自分に好都合なみことばを選んでしまうことにもなりかねません。「雨が降ったので今日はみこころではない」と約束をドタキャンしてしまったとしたら、外部環境にこころのうちが支配されてしまったことになります。

こうした態度の背景には、神様の定まったみこころ(救いのご計画)と神様の期待されるみこころとの混同が見られます。さらに、みこころでないなら祝福がないという「決めつけ」と、みこころの道じゃなかったらどうしようという「失敗への不安・恐れ」があるとも言えます。

1.    2種類のみこころを理解する

エペソ1:5−11には「定められたみこころ」が記されています。

「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって」「私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」いつの時代にも普遍的な神の救いのご計画が記されています。いわば福音の中核、福音そのものです。

一方、5:17「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるか、よく悟りなさい。」や6:6「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない」などは、神様の望まれるみこころが記されていると言えます。後者はそれぞれの聴き手のおかれている状況や生活の中で、多様で個別的な対応が求められます。
祝福の道はただ一つ「神の定められたみこころ」と呼ばれる「永遠の救いのご計画」(福音)を聴いて、信じて、受け入れ、永遠の命に至るこのひとつの道を歩き続けることです。この福音信仰を人生の唯一の基準あるいは定理として歩む限り、他の具体的な生活上の選択はいわばすべて「応用問題」に属します。あなたがほんとうにしたいと願っていること(個人的願い)、自分の賜物と自分の限界、おかれている立場、果たすべき責任、今までの経験、あなたが収集し蓄積しているあらゆる知識、日々のみことばの学びと祈り、すべてを総動員して応用問題を解いていくのです。おそらくいくつもの解答が出てくることでしょう。これしかないという「正解」は人生の応用問題にはないのかもしれません。どうしても解けないときには「待つ」というすばらしい選択も含まれます。

2.    御心でなければ祝福がないのでしょうか。

この問いに答える前にひとつの質問をしたく思います。私たちの人生はすべてが成功でなければならないのでしょうか。失敗はすべて悪なのでしょうか。失敗は罪なのでしょうか。神様は私たちに常に完全性(パ−フェクト)を求めておられるのでしょうか。これは私たちの世界観・人生観のベ−スにどのような価値観があるのかを気づかせてくれます。

「失敗は許されない」もしそうだとしたら、私たちのクリスチャン生活はいつも緊張を強いられたものになり、神様の前で安らぎを得ることはたいへん難しい、ほとんど不可能に近いものとなってしまいそうです。教会は心の安らぎの場所ではなく、世界でもっとも緊張する場所になってしまいます。

イエス様の前で弟子たちは多くの失敗を重ねています。しかしその度にイエス様は彼らを赦し、むしろ多くの失敗を通して彼らを成長へと導いておられます。嵐のガリラヤ湖の水の上を歩いて来られるイエス様を見て、船上のペテロは「水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(マタイ24:28)と願い出ました。「来なさい」とのイエス様の招きの声を聴いてペテロは水の上に、第1歩を踏み出しました。沈みませんでした。2歩目も3歩目も・・しかし波の音、風の音に気を奪われたその時、イエス様から目が離れた瞬間、ペテロは沈んで溺れかけました。イエス様がすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ「信仰の薄いものよ。なぜ疑ったのか」と語りつつ、引き上げてくださいました(マタイ14:24-32)。ペテロの失敗はすぐさま差し伸ばされているイエス様の「御手」に支えられているのです。私はこの場面がとても好きです。いつも大きな励ましをいただくことができるからです。

救い主イエス様のもとには、十字架の赦しがあります。悔い改めてイエス様のもとに来る時にはいつでも無条件に十字架の赦しが差し出されるのです。ですから私たちは、失敗への恐れから解放され、失敗をさらなる成長の機会と感謝のこころをもって位置づけることができるのです。

3.    多様なみこころの道

神様は私たちがどのような道を進み出したとしても、そこにイエス様への信頼があるかぎり、すべてを導かれます。
「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5−6)

「あなたが行くところ」つまり「あなたがこの道を進もうと考え選び決断した」ところ、どこであっても、神様により頼むならば、神様はその道をまっすぐにされることがおできになるのです。凸凹道であっても、ぬかるみの道であっても、険しい岩道であっても、神様はあなたを導かれると約束してくださっています。

ある牧師が説教の中で「神様の導きはちょうどカ−ナビのようなものです」と表現されました。カ−ナビは目的地に行くためにいろいろなル−トを提示します。もし間違えても修正して新しいル−トを示すことができます。ですから知らない土地を運転するときにはほんとうに役立ちます。カ−ナビの指示があってもすぐに右折できなかったり行き過ぎてしまったり、脇道に迷いこんだりしても、そのまま少し走っているとカ−ナビが位置を再修正して、次のルートを示し始めてくれます。そして目的地へと導いてくれます。

神様の導きというものはそのようなものではないかと思います。初めから1つの道しか用意されてなく、その道からはずれたらもう引き返してやり直すしかない、最初の選択が間違っていたからリセットかけなおさないことにはどうしようもないというものではないと思います。人生の道は多様であり選択肢は無限に存在しています。イエス様を信頼してあなたが歩みだすすべての道においてイエス様はあなたを導き、たとえそこに困難や試練があっても、それ以上の平安・希望をあなたに注いであなたを励まし導いてくださいます。

ですからどの道が絶対的に正しい祝福の道か、どの道を選んだら一生後悔するかもしれないと恐れや不安に包まれてしまうよりは、イエス様の守りと導きを信頼して、安心して踏み出しましょう。踏み出す価値がそこにはあります。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ロマ828

もう一度繰り返します。私たちが直面する事柄はすべてが応用問題です。一つの公式や原則をそのまま当てはめればすぐ答えが出るという問題ではありません。聖書の教えを複数、組み合わせながら、自分の置かれた状況を客観的に分析しながら、視点を広げたりあるいは狭めたりしながら、自分の経験や知識を総動員しながら、ときには「自分がほんとうに願っていることは何だろうか」と自分としっかり向き合って、祈りつつゆっくり答えを導き出すことが求められると思います。

そのようにイエス様とも自分とも対話して選んだ道はすべてが「神様も喜ばれる」道であり、祝福された道であり、途上がどんな状態であっても、神様はゴ−ルに至るまで、「あなたの道をまっすぐにされる」ことでしょう。

                                                                              以上



   

Copyrightc 2000 「宇治バプテストキリスト教会」  All rights Reserved.