2014年度 主日礼拝
2014年2月23日

題「生涯、主に仕えた理想の夫婦」
使徒18:1-3

中国の故事に「糟糠の妻、堂にくださず」ということばがあります。後漢時代に活躍した清廉な賢者宗弘のことばです。糟糠とは、酒かすと米ぬかのことで粗末な食物の喩え、堂とは座敷すなわち正妻の座を意味します。「貧乏のときから辛苦を共にしてきた妻は、成功を収めて富貴の地位に至ったとしても生涯大切にするべきである」という人としてのあり方の清らかさ、誠実さを例えた言葉として知られています。

夫婦の姿を例えることばは多くあります。仲の良い夫婦を「オシドリ夫婦」といい、お年をとっても手をつないで歩く夫婦をテレビのコマ-シャルから「チャ-ミング夫婦」というそうです。 夫がわがままな場合を「亭主関白」と言いますが、それ以上に女性が強いと「かかあ天下」と言われます。ご主人どころか天下まで治めてしまうのですからかないませんね。

さて、聖書の中に「アクラとプリスキラ」という1組の夫婦が登場してきます。宣教師パウロから「わたしの同労者」と呼ばれるほど愛され信頼され友情の絆で結ばれた夫婦でした。理想的な夫婦としてしばしばその名前があげられています。

1. コリントでパウロと出会う

「パウロはアテネを去って、コリントへ行った。ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。」(使徒181-2
AD49年にロ-マ皇帝クラウディウスが出したユダヤ人退去命令によって、アクラとプリスキラ夫妻は住み慣れたローマからイタリアそしてコリントに移り住み、天幕作りの仕事をしていました。そこで宣教師パウロと出会い、パウロを生涯の師と仰ぎ、交わりを深めたのでした。

興味深いことに聖書の中に6回夫婦の名前が登場しますが、4回は妻であるプリスキラの名前が先に挙げられています。夫婦の名前の順番が「アクラとプリスキラ」から「プリスキラからアクラ」にシフトしています。いろいろその理由が推測されています。ご主人よりも奥さんのほうが信仰熱心で、伝道にも意欲的だったのでいつしか教会の中で奥さんの名前を先に呼ぶようになったというのが一般的な解釈のようです。愛称のプリスキラというのは「小さな」「小柄な」という意味であり、正式名「プリスカ」(ロマ163)は「いにしえから」という意味です。そして両方とも「ロ-マ風の名前」だといわれています。アクラは黒海に面したポント地方出身のユダヤ人ですが、妻プリスキラがユダヤ人であったかどうかは説明されていません。言い伝えにすぎませんので想像の域を超えませんが、プリスカはロ-マの貴族階級の令嬢で、アクラはその家に仕える奴隷であったが、二人は禁断の恋に陥った。アクラの誠実さと信仰に心打たれたプリスカは上流階級の身分も特権も捨てユダヤ人奴隷と結婚をしたのではという解釈もあります。

アクラは天幕作りの職人としての確かな腕を持ち、妻のプリスカは貴族階級出身者らしい上品さと幅広いネットワ−クをロ−マ各地に持っていたため、結婚当初は苦労も並大抵のものではなかったけれど、商売は徐々に軌道に乗り、成功をおさめることができていたと考えられるのです。この夫婦は、ロ−マからコリントに、コリントからエペソに、エペソから再びロ−マに、さらにもう一度エペソに移り住みました。さらに、それぞれの町で自宅を開放して「家の教会」を指導していました。仕事場と家庭に人が集まれるある程度の大きさが必要ですから、経済的にも裕福であったと思われます。彼らは天幕づくりの職人であると同時に、ロ−マ、コリント、エペソにお店を出すことができた経営者でもあったとの推測も可能になります。ピリピにはすでにパウロの宣教を生涯にわたって経済的に支えた紫布の貿易を扱う女性経営者(テアテラ市とピリピ市に店を持っていた)が住んでいたことも(使徒16:14-15)記録されています。

特にロ−マの上流社会ではプリスカは有名で、そのネットワ−クの広さゆえにパウロも「プリスカとアクラ」(ロマ163)と彼女の名前を先にあげて配慮したと考えられます。むろんアクラも自分の名前が先に呼ばれようと呼ばれまいとそんなことにこだわる非寛容な人物ではありませんでした。妻が神様に用いられれば心から感謝することができました。なによりもすばらしいことは、アクラとプリスキラは生涯、夫婦として主イエスキリストと教会に仕える幸いな人生を共に過ごしたという事実です。

プリスキラが貴族階級の娘であったにも関わらずすべてを捨てて、ユダヤ人青年アクラと結婚し、天幕づくりの職人の妻として新しい人生を始めたというのは想像にすぎませんが、もしそうだとすれば、彼女は富や名誉にまさる最高の宝である生涯の夫を得ることができ、主イエスキリストに生涯仕える奉仕の人生を歩むことができた幸いな女性と言えます。

そしてこの夫婦はユダヤ人追放令のゆえに住み慣れたロ−マを離れコリントに移り住みましたが、そこで生涯の信仰の師と呼ぶパウロとの出会いに導かれ、1年半の長期にわたり教えを受け、信仰的な成熟へと導かれたのでした。神様のなさることに何一つ無駄なこと、意味のないことはありません。

2. エペソに移住

宣教師パウロがコリントを離れエルサレム教会に旅たつ日がやってきました。その時、アクラとプリスキラも同行してコリントを離れ、エペソへ向かいました。エ−ゲ海対岸に位置する小アジヤ最大の都市エペソにアクラとプリスキラは留まり、エペソ教会を支えることになります。

エルサレムへと旅たつパウロからエペソ教会の成長と発展のために協力を依頼されたのではないでしょうか。やがてパウロから受けた薫陶が実を結ぶ時が来ました。

熱心で雄弁な伝道者アポロがエペソにやって来たのです。ところが彼はまだヨハネのバプテスマしか知らず、元気で熱心で雄弁な働き人でしたが、信仰の深みへの理解が足りませんでした。キリストの十字架と復活、御霊による内在、キリストの再臨などを正確に語ることができませんでした。

アクラ夫婦は彼を自宅に招いて「神の道をもっと正確に説明しました」(18:26)。パウロに師事し薫陶を受けた1年半の学びが最初の実を結んだのです。年配の経験豊かな信徒は若い働き人を見ると、「まだ未熟だな、若いな」と、ついつい非難したくなる誘惑にかられやすいものです。「うちの先生はな・・・」などと家庭でつい話し合ったりすることもあるのではないでしょうか。アクラとプリスキラは伝道者アポロが人前で恥をかくことがないように自宅に招き、ねんごろに彼を訓育したのでした。アクラ夫婦の品性がにじみ出ている思いがします。

信仰は知識だけでは語れない深みを持っています。人生経験が信仰に厚みと奥深さをもたらすことも事実です。若い伝道者に性急に求めてもそれはできないことです。祈りと愛の中でこの夫婦は若い働き人を育てようと決心したのでした。それは12人の若者をそばに置いて3年半にわたり育てたイエス様の精神、常に若い働き人に機会を提供して育て続けてきた恩師パウロの考えにも一致するものでした。

やがてアポロがアカヤに渡りたいと願った時、彼らはコリント教会に手紙を送り、アポロをよろしくと喜んで紹介しています。やさしいまなざしを持った夫婦の姿をここに見ることができます。

3. ロ-マに移住そして再度エペソに

やがて数年後に夫妻は再びロ−マに戻りました。皇帝の追放令も緩和されたのかもしれません。上に立つ者の考えがコロコロ変わるのはこの世の習わしです。パウロはロ−マ教会の信徒に宛てて書送った手紙の中で、「私の同労者であるプリスキラとアクラによろしく」(ロマ163)と伝えています。同労者・・なんとすばらしいことばでしょうか。パウロとこの夫婦の間には壁がありません。キリストにある仲間、友人、そして絆で深く結ばれた師弟であり「同労者」なのです。

詳しい事情はわかりませんが、「いのちの危険を冒して私を救ってくれた」(4)人としてパウロの尊敬と感謝の思いはつきることがありません。「その家の教会によろしく」(5)と、この夫婦は再び思い出深い出身地のロ−マで「家庭集会」を開いて教会づくりに力を合わせて励んでいます。

4. エペソを終の棲家に

パウロがやがてロ-マで殉教する頃には、アクラとプリスキラはエペソに再び移住しました。パウロの最後の手紙となったテモテ第2の手紙の中で、「プリスカとアクラによろしく」(4:19)と記されています。殉教を前にしたパウロの脳裏に浮かんだのは生涯忘れることができない友・同労者であったアクラ・プリスキラ夫婦の姿でした。

最後になぜこの夫婦はロ−マではなくエペソを選んだのでしょうか。ひとつの可能性は、パウロの愛弟子であったテモテがエペソ教会の牧師として赴任していたからです。30代前半で、牧会に悩んでいる若い牧師テモテを、晩年になったアクラとプリスキラ夫妻は支えようと決心したのではないでしょうか。パウロがどれほどテモテを愛していたか(第2テモテ12)彼らはよく理解していました。テモテが病弱で線が細くときどきストレスから胃痛を起こすことも(第1テモテ523)、彼らは知っていました。だから、身近な所に居てテモテを支え励まそうとしたのです。彼らは再び家庭を開放して家庭集会は開いて教会の宣教牧会を下から支えているのです。

「アジヤの諸教会がよろしくと言っています。アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。」(1コリント1619

どんな教会にも牧師とともに宣教・牧会の働きをともに支える信徒そしてクリスチャン夫妻がいます。彼らの存在なくして教会は存在しません。私たちの教会もすでに天国に召された何組ものクリスチャン夫婦によって支えられてきました。そしていまも支えられ励まされています。

牧師が信徒を成長させ、信徒が牧師を成長させるのです。

深い絆と友情で結ばれた「同労者」意識がそれを可能にするのです。

パウロはエペソ人の手紙の中で夫婦のあり方を教えています。

 「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(522-24 「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(525

もしこのように愛し合い、仕え合うことができるのが「理想の夫婦」像とするならば、その根底には「キリストが教会を愛されたように」(25)、夫婦がこころから「教会を愛し、教会に仕える」ことを喜びとし、人生の共通の目的とし、生涯を添い遂げる結婚生活の最大の価値とする「祈り」がそこにはあることに気づかされます。

パウロがもっとも尊敬し理想的な夫婦として見つめていた「アクラとプリスキラ」夫妻の中には、この祈りが絶えることはありませんでした。

「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ロマ1210-11

「アクラとプリスカ、また彼らの家の教会が主にあって心から、あなたがたによろしくと言っています。」(1コリント1619

                                                                              以上



   

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