2014年度 主日礼拝
2014年2月16日

題「この町にはわたしの民が多くいる」
使徒18:1-11

 アテネを後にしたパウロは次の町コリントへ宣教の旅を進めました。結果的にコリントでパウロたちは1年半にもわたって滞在し伝道と牧会に励み、会堂管理者クリスポ一家の救い、多く のコリント人のバプテスマが導かれました(8)。長期滞在を支える生活費を得るために、パウロが天幕づくりの職人として汗を流して働きながら稼いだことも記されています(3)。 平 日は働き、安息日にユダヤ教会堂で教えるという生活スタイルだったようです。もっともシラスとテモテがピリピ教会からの宣教献金を届けてくれてからは、もっぱら御言葉を教えること に専念しました(5)。

 アテネを古代のギリシャ文化と伝統を受け継ぐ古い都と呼ぶならば、コリントは活気にみちた商業都市でした。交通の要所に位置するため、コリントは貿易業の中心地として大いに栄えて いました。3年に一度はオリンピックに相当する競技大会が開かれ、若者たちが肉体美と力を競い合っていました。町の丘にはアフロディア神殿が建てられなんと1000人もの巫女たち が神殿娼婦として巡礼者たちを迎え入れていたといわれています。当時「コリント娘」といえば娼婦を意味していたそうです。大阪では「儲かりまっか」「ぼちぼちでんな」が挨拶の言葉 だそうですが、コリントでもお金がすべての中心でした。うまい儲け話はないかと町中がちまなこで動きまわり、かたやストレス解消策として人々はスポ-ツに熱狂し、さらには性産業が 夜には軒をつらね、いかがわしい宗教が栄えるというひどい街でした。大都会にはいつの時代にもこのような性風俗産業が存在していたのです。かつてアブラハムが近寄ることを避けたソ ドムとゴモラの町のように、パウロの目にはコリントの町が映ったことでしょう。

   さて、そんなコリントの町にパウロは1年半にわたって滞在し伝道を続けました。その理由はイエス様から「恐れないで語り続けなさい。黙ってはいけない」(9-10)との励ましの声を聴  いたからでした。さらに「この街には私の民が多く居る」との希望と約束を主イエスから知らされたからでした。
 「どの町にもイエス様の民となる人々が多くいる。だから沈黙せず恐れず語り続けなさい」いつの時代、どの地域であっても、この聖句は教会が福音を宣教する土台となることばです。

 ところで「恐れるな」と言われるほど、パウロは何を恐れていたのでしょう。
 第一は、コリントの町の持つ誘惑の強さのゆえと考えられます
 コリントはお金とスポ―ツと性産業にまみれた名高い町でした。パウロもテモテもシラスも独身でしたから性的な誘惑に対して神様の助けが必要だったことでしょう。事実、コリントの教 会は後々まで「偶像礼拝と性的誘惑」の激しい戦いの中におかれ、パウロを悩ましつづけました(1コリント69-11)。

一般的に男性は「お金と名誉と権力」の誘惑に、女性は「占いや偶像」の誘惑に、若者は「性の誘惑」にさらされやすいものです。かつてアブラハムの時代、ロトとその家族が徐々に徐々に背徳の町ソドムトゴモラに足を踏み入れついに滅びに向かってしまったような心配や恐れをコリント教会に対してパウロは予感していたのではないかと推測されます。

第二は、教会に及ぶ新たな迫害のゆえと考えられます。
福音宣教がロ-マ帝国の都ロ−マに近づけば近づくほど、クリスチャンと教会の数が増えれば増えるほど、今までのようなユダヤ人社会からの迫害とは異質のとてつもなく大きな新たな迫害の影が教会に忍び寄ってくることをパウロは予想していたのではないでしょうか。パウロが抱いたこの不安と恐れは、やがて300年間にわたって断続的に続いた歴代ロ-マ皇帝によるキリスト教弾圧の嵐となって明らかになりました。ローマ皇帝を神と崇め、皇帝と国家への絶対忠誠を誓う皇帝礼拝と、唯一の神を礼拝し、キリストを主と告白してキリストに従うキリスト教信仰との対立は避けられないものとなってくることが十分予想されたからです。
すでにその前兆として、皇帝クラウデオによって都ロ-マからのユダヤ人追放命令がAD49-50年に公布されました。ロ-マから逃れてきたアクラとプリスキラ夫妻からパウロはロ-マでの様子を聞いて心を痛めていたと思います。なぜならば、ユダヤ人の追放令はやがてキリスト教への弾圧へと確実に進展していくことは想像に難くないからです。

パウロといえどもパーフェクトな人間ではありません。自分自身は迫害にも困難にも様々な苦難にも耐え抜くことはできるかもしれませんが、パウロの教えを聴きクリスチャンとなった兄弟姉妹が迫害を受け、苦しむ姿を見ることは忍び難いものがあったことでしょう。どんなに貧しく空腹であっても親は耐えることができます。しかし我が子がおなかをすかして泣いている姿を見ることは耐え難いのと同じ心境と言えます。

しかしそのような恐れが前途にあったとしても、行く手に暗雲が垂れこめ始めていたとしても、イエス様は「黙するな。語り続けよ」と前進命令をパウロに語りました。それゆえ、パウロは1年半もの長い期間、コリントにとどまり、福音を大胆に語り伝えたのでした。全能の主の御手に委ねきって、恐れからも解放されたのです。

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
                           わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」(イザヤ43:1) 

「この街には私の民が多く居る」と主イエス様はパウロに約束してくださいました。
福音を信じクリスチャンとなった人々をイエス様は「私の民」と呼びました。神の民といえばユダヤ民族イスラエルを指しますが、キリストの民といえば、クリスチャンとその共同体である教会を指します。別の表現をすれば「イエス様の牧場の羊」を指すとも言えます。

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。」(ヨハネ1011-16

どんな街にもイエス様の民が多くいるのです。まだ見出されていないかもしれませんが多くいるのです。この開町にも、移転する前の小倉の町にも、そして人口18万人の宇治市にも、さらに南京都地域全域にもまだまだまだ多くの「イエス様が私の民」と呼ぶ隠れた人々が多く存在しています。大きな希望であり喜びでもあります。

このみ言葉には個人的に深い思い出があります。

1985年、東京の神学校を卒業して宇治に帰ってきました。京都に帰る新幹線の中で「この街に私の民は多く居る」との主イエスの御声をはっきりと私は聞かせていただくことができました。教会員わずか5名の開拓教会を私たち夫婦は初代牧師より託されました。東京の神学校時代に私は、礼拝出席者が100名を超える大きな教会で奉仕をさせていただきました。東京では何もかもが大きくすばらしく、宇治の小倉では何もかもが小さくみすぼらしく見えました。こういうのを大都会病、東京病というのかもしれません。

小倉に帰ってからの開拓教会はやさしいものではありませんでした。私もなんどもイエス様に尋ねました。毎年、総会時に教会員名簿を見るたびに「大勢いる」と言われたのに「たったこれだけですか」、しかもお年寄りと子供たちばかり・・・思わずつぶやきも出てきます。

あるとき私は気が付かされました。「大勢いる」との主イエス様の約束のことばの、「大勢に」焦点をあてるか「いる」に焦点を当てるかでその意味するところが大きく違ってくることに。そして私は間違った解釈をしていたことに気がつきました。 主イエス様のみこころは「大勢」という数に価値をおいているのではなく、「いる」という存在に価値をおいておられるのだと。それが、99匹をおいてでも1匹の迷い出た羊を探しに出て行かれるイエス様のみ旨であることに気がついたのです。数は結果に過ぎません。大切なのはひとりひとりの存在が尊重され認められ受け入れられることです。

そのときから、私は教会のみなさんとの出会いを心から楽しむことができるようになりました。一人一人の人生に寄り添わしていただき、ともに歩くことが楽しくてしかたがありません。日々の生活が充実してきました。

牧師というのは「牧会してやる」存在ではありません。受け入れていただきその人の人生をともに歩むことを赦していただいた存在なのです。牧師人生29年間の間に、たくさんのイエス様の羊の誕生を見、その成長を見、時にはその最後を看取らせていただきました。一人一人がわたしにとってかけがえのない素晴らしい存在なのです。

これから先、何年牧師としてみなさんと共に歩めるかわかりませんが、これからも「私の民が多くいる」と言われたイエス様の牧場の羊たちとの出会いが多く与えられるにちがいありません。

私たちはこの会堂が大勢の人でいっぱいになることを祈っています。しかし席が埋まってもお互いの存在が認められ受け入れられ愛されていなければそれは「いる」ことにはならないと思います。居場所のない教会ほど虚しいものはありません。優先されることは「いる」「存在している」「受け入れられている」「ここに私の居場所がある」そんな平安と感謝ではないでしょうか。

主イエス様は「この街には私の民が多くいる」のですと呼びかけておられます。イエス様の民・イエス様の羊たちがまだ私たちが知らないところに多くいます。彼らは私たちクリスチャンが声をかけてくれることを待っています。

人々は伝道されることを望んではいません。自分の存在が認められ受け入れられることを望んでいるのです。安心して「いる」ことができる居場所を探しているのではないでしょうか。

「よろしければご一緒に教会へ行きませんか。救い主イエス様の御前に進み出てご一緒にお祈りしませんか。わたしたちの教会はこの街のこころのオアシスでありたいと願っています。ですから、いつでも気軽にお茶しませんか。そしてあなたのお話を聴かせてくださいませんか。心から歓迎します」このような身近な声かけから、伝道は始まるのではないでしょうか。

「私があなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って危害を加えるものはいない。この町には私の民がたくさんいるから」(使徒1810

                                                                              以上



   

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