2014年度 主日礼拝
2014年2月9日

題「まことの神を知るのは今でしょう」
使徒17:22-34

 -ロッパ宣教に進みでたパウロは、ピリピからテサロニケ、ベレヤと進み、ついに芸術哲学の都として古代より栄えていたギリシャのアテネにやってきました。ソクラテス・プラトン・  アリストテレスエピクロスという偉大な哲学者を輩出した都でした。アテネの町はいたるところに神々の神殿が建てられ、人間や動物の形を刻んだ彫像があちこちに飾られていました。目  をあげればアクロポリスの丘にはアテネの守護神を祭るパルテノン神殿がそびえ立ち、「アテネでは人よりも神に多く出会うであろう」といわれるほどだったそうです。パウロとシラスは  「町が偶像でいっぱい」(17)なのを見て驚きあきれ、「心に憤りを感じた」(17)ほどでした。偶像礼拝を固く禁じるモーセの十戒を厳守するユダヤ人であるパウロにはいたたまれない 光景だったことでしょう。

そこでパウロはアテネにあるユダヤ人会堂ばかりでなく、町の広場に積極的に出て行って、人々と論じ合いました。とくに「エピクロス派とストア派の哲学者たち」(18)がパウロの話に好奇心から大いに関心を持ったようです。エピクロス派は快楽の中に人間の幸福があると考える人々であり、ストア派は反対に禁欲生活に中に幸福があると考える人々たちでした。新しいモノ好き、好奇心旺盛なギリシャ人はアレオパゴスの広場で公開演説をするようにパウロに依頼したのです。「すべての機会を福音宣教のために」と考えていたパウロは喜んで出かけて行きました。まことの神様も聖書も知らない人々にどのように伝道することが可能なのか、パウロの説教から学ばせていただきましょう。

1.    まず第一に、パウロは、あなたがたは「宗教心が熱い」人々ですと認めました。

激しい憤りを覚え
ていたパウロでしたが、感情的に流されないで冷静に観察し穏やかに語りかけました。相手の心を開かせるには相手の良いところを認め、ほめることが大切です。なぜならば、ほめられて気分を害する人はいないからです。「これらは偶像です。なんの意味もありません。壊しなさい、捨てなさい、燃やしなさい」と全面対決をしても拒否されるだけです。こちらが戦闘態勢に入れば相手も戦闘態勢に入るかあるいは拒絶的な防衛体制を固めてしまいます。大切なことを伝えたいと願うならば、まず相手が大切にしていることを大切に受け止め、認めることが求められます。

うっかりしてまだ拝んだことがない神々がいればたいへん失礼にあたるとアテネの人々は考え、わざわざ「名前を知らない神に」(23)まで祭壇を築いていました。冷静に観察していたパウロは「では、あなたがたがまだ知らない神様について話しましょう」と緒を見出し、語りはじめたのです。なになに?と聴衆は身を乗り出して聞き入ったことでしょう。

日本には八百万の神々が存在していると信じられ、家には仏壇や神棚が置かれ、お札やお守りがあちこちにはられます。宗教庁の統計発表では日本の宗教法人の数は19万、各宗教に属する信徒数は約2億7千万人、日本の総人口の2倍近くになってしまうそうです。つまり、二股三股をかけて信心している人が多いことを意味しています。もちろん、宗教心と福音信仰とは同じではありません。しかし、神の存在を否定する無神論の考えよりはまだクリスチャンに近い存在と言えます。「愚か者は神などいないという」(詩篇141)と無神論を聖書はしりぞけますが、「宗教心」を聖書は受け入れているからです。聖書は「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(伝道3:11)と教えています。「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」(箴言1:7) 宗教心を持っている人を決して蔑んだりけなしたり、批判非除してはなりません。対話を重ね、信頼を勝ち取り、彼らがまだその名を知らないまことの神の名を伝えてあげましょう。イエスキリストの麗しい名を知らせてあげましょう。

2.    第二にパウロは「世界とそのなかにあるものすべてをお作りになった神、天地の主(24)」について語りだしました。

ギリシャ神話に登場する多くの神々の話を通して、天地を創造された神の存在はギリシャ人にも受け入れ易かったからではないでしょうか。
相手が大切にしているものを私たちも大切にすることが第一です。第二は違いを強調するのではなく共通点を見出して対話を重ねることです。その際に矛盾のないわかりやすさ、つまり「論理性」が求められます。とくにギリシャ人の場合にはなおさらでした。

天地を創造された神様ですから、当然ながら人間の手によって建てられた神殿や宮の中に住まわれるお方でではありません。人間の手によって食べ物や水を運んでもらわなければ何もできないお方ではありません(24-25)。天地の造り主は今もなお世界をご支配されておられますから、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在」(28)しているのです。したがって神様は遠いところではなく「近くにおられるのです」(27)。だから、探し求めればかならず見出すことができるのです。このようにお互いに共通するところを見出し、論理的に筋を通して、わかりやすく語れば説得力は高まります。

天地の主ということばを日本人は「おてんとうさま」「大自然」「人間を超えた宇宙」「神」「天」という表現をするかもしれません。西郷隆盛が最も大事にしたことばは「敬天愛人」でした。天を敬い人を愛するこころは人としての本分と西郷さんは考えていたようです。天地の創造者なる神様は、正しい者にも悪人にも等しく太陽を昇らせ、雨を降らすおかたであり、空の雀1羽といえども神様の保護のもとに置かれるいのちとめぐみの神であることを聖書は教えています。人間は謙虚になれば、大自然の営みの中に神の英知と秩序を見出すこともできるのです。「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」(詩篇19:1)

私たちが生きているこの自然界や宇宙がどれほど精巧に造られていることか。創造主の英知とご計画性抜きには語れないと思います。この世界がどれほど豊かないのちの神秘に満ち満ちていることか。知れば知るほど私たちは「生かされて生きている」自分を発見し、深い畏敬と感謝のこころを抱かざるをえません。天地を創造された永遠なる神様、全能者なる神様、高いところにも低いところにもともにおられる天地の主、このお方の「人格」を認め、天地の主を「父なる神様」と呼び、信頼と交わりの中に生きることができたとき、宗教から福音へ、宗教心から信仰へと「福音の扉」を大きく開くことができるのです。
「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。」(マタイ6:26)

3.  第三にパウロは「裁き」について語りました。

天地を創造された神様を「人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません」(29)。今こそ、無知から目覚めて、悔い改めて、神に立ち帰えらなければなりません。なぜならば、天地の創造主なる神は、日を決めてこの世界と罪を裁かれるからです(31)。そして、神様は死者の中からその裁き主をよみがえらせ、権威を明らかにされておられるからですとパウロはいよいよ核心に迫っていきました。

福音の根底には「神の愛」があります。宗教の根底には「神の裁き」があります。福音信仰の根底には「神の愛への感謝」が満ち、宗教的信心の根底には「裁きへの恐れ」があるといってもいいのではないでしょうか。ですから、なにか良くないことがおきればすぐ「ばちがあたった」と日本人は口にします。もっと悪いことがおきれば「たたりだ」と騒ぎ出してしまうのもうなずけます。

創造主である神様に背いて背を向けて生きている人間には「罪の意識」が常にあります。罪など犯したことが一度もないと断言できるような善人は一人もいないように、良心のひとかけらも存在しないような悪人もまた一人もいないのが私たち人間の現実です。ですから、裁き主が存在されること、隠した悪事はどこかで発覚すること、罪はこの世ではごまかせても神の前では最後に裁かれること、

この世界に終末があることを、個人の人生に死という終末があることを、人はだれも、ギリシャ人であれ日本人であれ、直感的に感じ取っているのではないかと私は思います。それゆえ死と裁きを恐れるのです。そこで大きな宗教的な課題となるのが「罪からの赦しがどこにあるのか」「誰が罪を赦す権威をもっておられるのか」という問いかけです。世界中の宗教がこの根本問題をテ-マにしています。

初めから「人間、罪なし病なし苦もなし」と説いてしまえば別ですが、これではあまりに楽天主義といえます。多くの真面目な宗教では要約すれば「人間の努力による償い」を説いてきたのではないでしょうか。ところがパウロは「神のあわれみにより差し出された赦し」を受け入れる道を説いたのでした。

罪人を愛されるが罪を憎まれる天の神様は、罪からの救い主をユダヤの国に遣わされました。その方こそ神の御子イエスキリストです。罪人が罪のゆえに永遠の滅びに向うことがないように、神様の愛の御心を受けとめ、人となられたまことの救い主は人間の罪をすべてその身に引き受けて、十字架の上で身代わりとなって神の怒りと裁きを背負いきってくださり、ご自身の死をもって、完全に罪を償いを切ってくださいました。その救い主の尊い名は、イエスキリストです。救い主イエスキリストの名を信じることは、「神のあわれみにより罪人に差し出された赦し」を感謝して受け入れることと読み替えることができます。信仰とは、「神様から差し出された赦しをただ感謝して受け取らせていただく、頂戴すること」です。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

アテネの人々は、パウロが救いの確信すなわちキリストの十字架の死と復活のメッセ-ジに進んだとき、ある者はあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」(32)とまったく聞く耳を持とうとしませんでした。愚かな馬鹿げた話としか思えなかったからです。いつの時代でも「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(1コリント1:18)というパウロのことばは真実です。しかし、いつの時代でも神様はわずかであっても必ず神の民を起こされ、残されるという大きな希望もあるのです。「アレオパゴスの裁判官デオヌシオ、ダマリスという女、その他の人々」(34)がイエスキリストを救い主として受け入れたのでした。彼らがアテネ教会を礎を築いていったことでしょう。直接的な関連はありませんが、今日、ギリシャ全国民の97%以上がクリスチャンで、ギリシャの日曜日には店が閉じられ教会以外に行くところがないと言われているほどだと聞いています。十字架のことばを愚かなこととしてではなく、神様の恵みとして受け入れることができる人はなんと幸いなことでしょうか。

仏教と神道と先祖崇拝が混合した独特の「日本教」文化社会になかにあって、私たちもパウロのスピリットをもって宣教に励みたいと願っています。こころを込めて私たちもこのようにお伝えしたいものです。

「あなたの中に宗教心があることに私たちは敬意を払い、あなたが信じるものを私たちも尊重します。そしてあなたがまだその名を知らない神の名をお知らせしたいと願っています。その名は、イエスキリスト。神の御子、まことの救い主です。あなたの罪をゆるすために身代わりとなって十字架にかかって死なれ、あなたが罪の赦しと義に生きることができるように死からよみがえられた救い主です。このお方の名を知ることはどんな価値にもまさります。なぜならば、あなたの人生が変革するからです。

もし関心があるならば、ご一緒に聖書を学びませんか。私たちは喜んでそのお手伝いをさせていただきたいと願っています。私たちは、救い主キリストにある安らぎと希望をあなたの人生にお届けしたいと心から願っています。」
                                                                                                                                                      以上



   

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