御心を誤解したままの熱心さの危険性
1.パウロはイエスを信じる以前も熱心に神に仕えていた
パウロはファリサイ派に所属していた時、神に対して非常に熱心でした。
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。
そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について
厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。
使徒言行録 22章3節
2.しかしパウロはイエスを信じる者たちを熱心に迫害していた
神に対して熱心だったパウロは、熱心に神の教会を迫害していたのです。
わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。
使徒言行録 22章4節
パウロの教会を迫害することの熱心さに関して言えば、エルサレムから遠く離れた
ダマスコの信徒をも、処罰しようと出かけていくほどでした
このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。
実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、
その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために
出かけて行ったのです。」
使徒言行録 22章5節
3.救われる以前のパウロは熱心だったが神の御心に反した熱心さだった
パウロは一生懸命神に仕えようとして、熱心に励んでいました。
しかし神の遣わして下さった、救い主イエス・キリストを
神を冒涜する異端者だと誤解したまま、神に対して熱心でした。
そのため、神がせっかく送って下さった救い主を熱心に拒絶してしまい
熱心に「神に背く行動をとってしまう」という、結果になってしまっていたのです。
神に対して熱心であろうとしているのに、神の御心を誤解していると
熱心に、神の御心の逆を行ってしまう可能性があるのです。
熱心に神の御心の逆を行ないながら、「自分は神に対して熱心だ」と思い込んでしまうのは
神に対して反逆しているのと、同じことになります。
当時のファリサイ派の人々や律法学者たちが、まさにこの状態でした。
パウロはそのファリサイ派の一人だったのです。
パウロもファリサイ派の人々や律法学者たちも、正しくイエスを認識する必要があったのです。
むすび.神の御心を誤解したままでの熱心は危険
「私は、聖書の内容をよく知っています」「私は、神に対して熱心です」と言いつつ
神の遣わされた救い主イエスを、熱心に迫害するということがパウロに起きていました。
熱心さには「神の御心にかなっている」という、土台がなければならないのです。
神の言葉を謙虚に聴き、神の御心を知り、神の言葉に従うことを選び取った上で
熱心になるということが、求められているのです。
御心を誤解したままでの熱心さは、実は危険な事でもあるのです。
【今日の聖書】
兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、
彼らのために神に祈っています。
わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、
この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
ローマの信徒への手紙 10章1〜2節