ダマスコの教会はいつどうやってできたのか?
1.ダマスコのアナニアはサウロの悪事を聞いて知っていた
救われる以前のパウロは、サウロという名前でした。
そして、エルサレムでイエスを信じる者たちを迫害していました。
アナニアは、大勢の人々からそのエルサレムでの迫害を聞いていました。
しかし、アナニアは答えた。
「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、
あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、
大勢の人から聞きました。
ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、
祭司長たちから権限を受けています。」
使徒言行録 9章13〜14節
アナニアは、エルサレムでのサウロの悪事を
「大勢の人から聞きました」と、言っています。
サウロの迫害を実際に体験して知ったのではなく、間接的に聞いて知っていたのです。
2.ダマスコの教会はエルサレム教会の迫害によってできたのか?
2.1 遠方の異国の地ダマスコには迫害前には教会はなかった?
ダマスコの教会が、サウロの迫害の結果できたという人もいます。
「サウロのエルサレム教会迫害時に逃げた人々が、ダマスコに教会を作った」というのです。
確かに、ダマスコはエルサレムから300Km以上の遠方です。
その時には、まだダマスコまでキリストは伝わっていなかったのではないか?
ダマスコにはまだ、イエスを信じる人も教会もなかったのではないか?
迫害で逃げていった人々が、ダマスコで集まってはじめて教会ができたのではないか?
という人もいます。一体、どちらなのでしょうか?
2.2 アナニアは迫害を聞いて知っていたのであって直接体験ではなかった
もしも、サウロがエルサレム教会を迫害した時に
そこから逃げた人々によって、ダマスコに教会ができていたとしたら
アナニアも、エルサレムから逃げて来たということになるでしょう。
もし、アナニアが迫害の時にエルサレムにいたとするなら
彼のイエスに対する言葉は、「大勢の人から聞きました」ではなく
「私はこの目で見て知っています」だったのではないでしょうか?
使徒言行録には、ダマスコ教会の詳細な設立経緯が記されていないので
いつダマスコの教会ができたのか、特定することはできませんが
アナニアのこの発言から、彼は「ダマスコにいながら迫害の知らせを聞いていた」
と考える方が、自然のように思えます。
彼は「直接、エルサレムで迫害を体験していた」のではなく
ダマスコにいながら、エルサレムでの迫害を人々から聞いて知ったという流れです。
2.3 ペンテコステの時の信徒によって教会が形成されていたか?
ペンテコステの時に救われた3千人の中に、ダマスコ在住の人が居て
その後すぐにダマスコに帰って、イエスをそこで伝えて
教会ができていた可能性も、充分あり得るからです。
3.エルサレム教会迫害時にアナニアが既にダマスコにいた可能性は?
3.1 ダマスコはユダヤから見れば異国の地
ダマスコは、いわゆる「ユダヤ地方」ではありません。
ユダヤ人の住む町ではなく、ユダヤから見れば異邦人の町でした。
アレタ王の代官がいましたが、彼はナバテヤ王国のアレタ4世と考えられています。
ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、
ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、
窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。
コリントの信徒への手紙二 11章32〜33節
パウロがアグリッパ王の前で弁明した時、パウロは
「外国の町にまでも迫害の手を伸ばした」と語っています。
実は私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。
そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて
多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。
また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、
彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」
使徒言行録 26章9〜11節
パウロがエルサレム以外で迫害しようとしたのは、ダマスコが最初です。
しかし、ダマスコですでにパウロは救われていますから、
この時のパウロの「外国の町にまでも迫害の手を伸ばした」という言葉の
「外国」というのは、ダマスコ以外には考えられません。
ダマスコは、ユダヤから見れば外国であり異国の地だったわけです。
3.2 異邦人の地に既に大勢の信徒を要する教会があった
外国の町に、サウロはキリストを信じる人々がいることを知り
彼らを捕縛して、エルサレムに連行しようとしています。
ひとりふたりではなく、無視できない程の数の信徒がいたことがわかります。
サウロの迫害の始まった頃に、300キロ以上離れた異邦人の町ダマスコに
多くの信徒を擁する教会が、すでにできていたわけです。ということは
迫害で散らされた人々によってではなく、それ以前に信じた人々によって
ダマスコに教会が形成されていた、ということにならないでしょうか?
そしてその中にアナニアもいて、エルサレム教会でのサウロによる迫害や
祭司長たちからの権限受領の情報を、得ていたのではないでしょうか?
3.3 ダマスコに元々教会があった可能性も大いに考えられる
確かに迫害によって散らされて行った人々が、ユダヤ地方やサマリア地方で
福音を伝えて、宣教が広がったわけではありますが
それ以前にも、福音が伝えられていた可能性は充分あります。
サウロの迫害以前には、エルサレムにしか信徒が居なかったというわけでは
なかったと考えられます。多くの人が、他の地域に移動していたことでしょう。
事実エチオピアの宦官は、エチオピアに向けて旅立っています。
むすび.ダマスコにはサウロの迫害以前に教会があったのかもしれない
アナニアは、サウロによる迫害を「大勢の人から聞きました」と語っています。
このことからアナニアは、迫害の事実をひとりふたりからではなく、
大勢の人々から、聞いていたことがわかります。
ということは、ダマスコにエルサレムの迫害を体験してきた人々が
大勢やってきていた可能性も、大いにあり得るということになります。
ダマスコに元々教会があったとしても、その信徒が
エルサレムからの避難者で占められていた可能性は、十分にあるわけです。
たとえ、サウロの迫害以前にダマスコに教会があったとしても
その信徒の大半が、エルサレムからの避難者だったという可能性も大いにあるのです。
その場合ダマスコの教会は、避難者の教会だったと言えなくもないでしょう。
いずれにせよ、そういう状況下でのダマスコの教会には
迫害者サウロがやって来るという情報は、脅威以外の何物でも無かったことでしょう。
【今日の聖書】
しかし、アナニアは答えた。
「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、
あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、
大勢の人から聞きました。
ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、
祭司長たちから権限を受けています。」
使徒言行録 9章13〜14節