今日のできごと


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2024/10/22(火)

 

あの人よりは正しい人間です

1.ファリサイ派の人々や律法学者たちは、悪を行っている人を蔑んでいた

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、聖書を一生懸命学んでいました。
 そのことによって生じた思いは、何だったでしょうか?
 それは、聖書を学びもせず聖書の戒めに反した悪を行っている人々に対する蔑(さげす)みです。

 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
 『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、
  不正な者、姦通を犯す者でなく、また、
  この徴税人のような者でもないことを感謝します。
 ルカによる福音書 18章11節

2.彼らがやっていたのは相対評価だった

 「私は彼らのような悪を行っていません。
  正しく生きているのです。
  だから私は、神の前に正しい人間なのです。」

 彼らがやっていたのは、人と比べて自分の状態を判断するいわゆる相対評価です。
 人の行動と自分の行動を比較して、正しさを評価していたわけです。
 「彼らは悪事を行っているが、私はしていないから正しい」というものです。

3.行動の如何にかかわらず皆神のみ前に同じ罪人

 確かに盗みや不正や姦通は、神の前に罪の行為となります。
 しかし、そんな悪事を行っていなくても、
 生まれながらにして、神の前に罪人であることは同じです。

 行動で比較したら、確かに違うでしょう。
 しかし、目に見えない本質的な部分はまったく同じなのです。
 罪人であることに、大小の差はないのです。みんな同じ罪人なのです。

むすび.相対評価をして自己義認していたのが大きな間違いだった

 ファリサイ派の人々や律法学者たちの過ちはここにあったのです。
 見かけで人を判断して、その見えない本質がわかっていませんでした。
 罪人であるというのは、相対評価ではなかったのです。

 神のみ前では、だれもが等しく同じ罪人なのです。
 私と彼とで罪の大きさが違う、ということはないのです。
 どんなに正しく生きていると思っていたとしても、凶悪犯と同じなのです。

 私たちは、相対評価で自分や人を判断してはならないのです。
 刑務所にいる人たちよりも私の方が正しいと思ったら、大間違いなのです。
 行動に出ても出なくても、すべての人が同じ罪人なのです。

 【今日の聖書】
 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、
 内側は偽善と不法で満ちている。
 マタイによる福音書 23章28節


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