私は赦せません
1.「神に赦された」という信仰は「人を赦すこと」によって表される
「私はどうしてもあの人を赦せません」という場合があるかもしれません。
しかし聖書の言葉は「七の七十倍までも赦しなさい」です。
イエスは言われた。
「あなたに言っておく。
七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
マタイによる福音書 18章22節
そして、「赦さないならばあなたも赦されません」と言われています。
しかし、もし人を赦さないなら、
あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイによる福音書 6章15節
イエス・キリストを心に受け入れるということは、こういうことです。
キリストが「私のすべての罪を赦して下さった」と信じていることを
「人のすべての罪を赦すこと」によって表してゆくのです。
2.赦さないことは「私も神に赦されていません」という信仰告白
「人を赦さない」ということは、「私も神に赦されていません」という信仰告白と同じです。
「私はキリストによって赦されました」という信仰告白の、正反対になるのです。
「人を赦さない」ことは、神の御心に反する事であり無条件の愛「アガペー」の反対になります。
ですから「人を赦さない」ことは、神の前に罪となるのです。
神の前に罪とわかっていながら、人を赦さないならばそれは故意の罪になってしまいます。
イエス・キリストを正しく信じているなら、罪を憎み退け御言葉の通りにしようとします。
3.「どうしても赦せません」という感情が沸き起こったら
もし「どうしても赦せません」という感情が、沸き起こってきたら
「神様、人を赦せない思いを持ってしまった私を赦してください」
「どうしても赦せなかったあの人を赦せるように助けて下さい」と祈るのです。
神のみ旨にかなった祈りは、必ず答えられます。
私たちが悔い改めの祈りをする時、神は私たちを赦して下さり
私たちを、どんな人をも赦す人へと変えて下さいます。
ここで単に助けて下さいと祈るだけではなく、「私は赦します」と祈るのです。
感情では赦せない思いがあったとしても、意志は感情とは別物です。
自分の意志で、「私は赦します」と決断するのです。
むすび.ステファノを見習え!
ステファノの祈りは、「この罪を彼らに負わせないでください」
という祈りでした。
それから、ひざまずいて、
「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。
ステファノはこう言って、眠りについた。
使徒言行録 7章60節
私たちは、このステファノの祈りを模範にするのです。
たとえ私たちが、冤罪で罪に定められたとしても
自分への加害者を、100%赦す意志が必要なのです。
【今日の聖書】
わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。
コロサイの信徒への手紙 1章14節