弱さこそ誇るべきもの
1.パウロには誇ることができそうなものがたくさんあった
パウロにとって、人に誇りたくなるものは数多くあったでしょう。
「俺は、生粋のユダヤ人でベニヤミン族に属する者なんだぞ、すごいだろう」
「俺は、ローマの市民権を持っているんだ、すごいだろう」
「俺は、ヘブライ語だけでなくギリシア語もできるんだぞ、すごいだろう」
「俺は、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けたんだぞ、すごいだろう」
「俺は、様々な迫害にも負けず伝道旅行をしてきたんだぞ、すごいだろう」
生まれや家柄、地位や権威、語学などの能力、学歴、経歴、などなど
パウロは誇ろうと思えば、誇ることができました。
ほかの人々が持っていないようなものを、持っていたからです。
2.パウロは誇りになりそうなものを損失だと思うようになった
しかしパウロはそんなものを、誇りにはしませんでした。
逆に、損だと思うようになったのです。
しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、
キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
フィリピの信徒への手紙 3章7節
パウロにとって本当に得だと思ったことは何だったでしょうか?
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、
今では他の一切を損失とみています。
キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。
キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、
信仰に基づいて神から与えられる義があります。
フィリピの信徒への手紙 3章8〜9節
「主キリスト・イエスを知ること」なのです。
「主キリスト・イエスを知ること」のあまりのすばらしさに、
今では他の一切を損失とみています、と語っているのです。
3.パウロは自分自身の弱さを誇った
パウロは、自分のすごさを誇りとはしていませんでした。
逆なのです。自分の足りなさ、不十分さ、できないところ、失敗してしまう所
すなわち弱さをこそ、誇りとしていたのです。
誇る必要があるなら、
わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二 11章30節
それは神の力が、弱さの中でこそ十分に発揮されるからなのです。
キリストの力が、自分自身の内に宿るように、
大いに喜んで自分の弱さを誇ろうと、パウロは言っているのです。
すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。
だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、
むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
コリントの信徒への手紙二 12章9節
むすび.普通隠したくなるような弱さをこそ誇れ
普通は、自分を人に対して良く見せたいと思います。
立派な自分、素晴らしい自分、かっこよく美しい自分を見せたくなります。
みすぼらしい自分、情けない自分、弱い自分は隠したくなります。
しかしパウロは違ったのです。
「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」だったのです。
それはなぜでしょうか?
それは神の力が、弱さの中でこそ十分に発揮されるからなのです。
キリストの力が、自分自身の内に宿るためでした。
そして「主キリスト・イエスを知ること」こそが、最も重要なことだったからです。
自分自身の中に元々なかった、主イエス・キリストこそ
実は最も誇るべき、私たちの力であり宝なのです。
パウロの様に、キリストの力がこの身に表れるように弱さを誇りましょう!
【今日の聖書】
このような人のことをわたしは誇りましょう。
しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
コリントの信徒への手紙二 12章5節