御言葉の実行の重要性
「ゆるしなさい」と神は言われています。
だから私たちは、自分の心の中に「ゆるさない人」を作りません。
心の中のどこを探しても、「ゆるしていない人」がいないようにします。
ごく身近な人でない限り、その人をゆるしてもゆるさなくても
その後の人生は、どちらも同じように過ぎてゆくことでしょう。
毎日食事をして、仕事をして、家族と過ごしたり、友人と過ごしたり
ゆるしていない人とだけは、交流せずに
あとはほとんど同じように、生きていくことでしょう。
ゆるさなかったから、給料が減ることになったとか
会社をくびになったなどということは、ないでしょう。
逆に、ゆるせない人を見返すために、その人よりも仕事を頑張り
昇進し、高い地位についたりするかもしれません。
しかし、最後があるのです。
人をゆるさなかった人の最後は、滅びです。
ゆるさなかった人は、最後に自分も赦されないのです。
イエス・キリストが、私を赦して下さったということを信じるなら
その信仰を、人をゆるすということにおいて表してゆきます。
人をゆるさないということは、私も赦されていませんと言っているのと等しいのです。
良い行いで救われるのではありませんが、信仰は当然行いに表われます。
結婚して夫婦になったら、よその男性や女性との交際はきっぱりやめます。
一度夫婦になったら、伴侶とだけ肉体的にも精神的にも親密な関係になるのです。
結婚して夫婦になったにもかかわらず、夫が毎晩
他の女性の家に泊まりに行っていたら、それはもはや夫婦とは言えません。
一度夫婦になったら、伴侶とだけ一緒に住むのです。
同様に、天地万物の創造主である神を信じたなら、
それ以外の偶像の神々との関りを、断ち切るのです。
神を信じますと言いながら、偶像崇拝をしていたらそれは、真実な信仰とは言えません。
「イエス・キリストの十字架で、私の罪はゆるされました」と言いながら
他の人の罪をゆるせなければ、真実な信仰とは言えません。
「イエス・キリストは私をゆるしていません」と、言っているのと同じなのです。
不倫が夫婦関係を破綻させるように、偶像崇拝は神への信仰を破綻させてしまうのです。
人をゆるさないことも、「イエスにゆるされました」という信仰を覆してしまうのです。
御言葉の実行の重要性が、ここからわかります。
御言葉を行わないということは、信仰を否定するのと同じなのです。
信じたら信じたとおりに、行動するのです。
信仰の逆の行動は、きっぱりとやめてしまうのです。
【今日の聖書】
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、
砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、
倒れて、その倒れ方がひどかった。」
マタイによる福音書 7章26〜27節