キリストの十字架の姿 〜誤解された〜
1.イエスは誤解された
イエス・キリストは、罪のゆるしと永遠の命を与えにこの世に来られました。
人々に真理を伝え、救いの道を示されたのですが誤解されました。
人々はイエスを、民衆を惑わし扇動しローマ皇帝に背かせる者だと決めつけたのです。
それは、全くの誤解でした。
惑わすどころか逆に人々の間違いを示し、唯一の真理の道を示されていたのです。
真実を語っていたにもかかわらず、惑わし扇動する者と誤解されてしまったのです。
2.イエスを誤解してしまった方が悪かった
誤解される方が、悪かったのでしょうか?
違います。
誤解した方が悪かったのです。
「
瓜田に
履を
納れず、
李下に
冠を正さず」という
諺がありますが
「誤解されるような行動をとった、イエスが悪いんだ」という理論は成り立ちません。
「ベツレヘムで生まれたのに、ナザレで育ったから誤解されるんだ」とか
「安息日に病人をいやすからいけないんだ。平日にいやせばよかったんだ」などと
言ったところで、それは違っていたのです。誤解してしまった方が、悪かったのです。
3.誤解された結果十字架につけられた
結局、誤解の上での事実誤認の訴えが、
総督ポンティオ・ピラトの意見に勝ってしまい、イエスは十字架につけられてしまったのです。
誤解は、最終的にイエスを十字架刑にしてしまったのです。
いわゆる「冤罪」です。
誤解は罪のない人を罪ありとする「冤罪」を生み出します。
イエスの十字架刑は、罪のないイエスを死刑にするという冤罪だったのです。
むすび.誤解を受けるほど主の十字架に近づく
私たちも、誤解を受けることがあります。
誤解されるような行動をとった、あなたが悪いんだと言われることもあるのです。
けれども、その誤解こそ「十字架にかけられたイエスが受けられたもの」なのです。
誤解を受ければ受けるほど、私たちは主の十字架の苦しみを知ることになり
誤解を耐え忍べば忍ぶほど、主の十字架の姿に近づいてゆくのです。
誤解それは、主イエスがすでに受けられた苦しみなのです。
【今日の聖書】
しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、
ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
ルカによる福音書 23章5節