部分的
この地上で生きている限り、完璧にすべてを知ることはできません。
すべての知識は、一部です。
一部の知識で何とかしようとするところに、困難が生じます。
たとえば、動物のゾウを例に挙げてみましょう。
まったく動物のゾウを見たことのない人たちが、ゾウの鼻だけを見て
ゾウの全身像を、予想することを考えてみましょう。
ゾウの鼻は、他の動物にはない特徴的なもので、独特なものです。
ですから鼻だけを見れば、それでそれが「ゾウのものだ」とわかります。
その動物がゾウかどうかを判断するには、鼻だけ見れば十分です。
けれども、ゾウの全身を見たことのない人たちが集まって
鼻だけを見て、全身像を把握することはできるでしょうか?
これは、ほぼ不可能です。どんなに大勢集まったとしても無理です。
太い脚だったり、細いしっぽだったり、うちわのような耳だったり
とてつもなく大きな胴体だったり、これらは実際に見てみないとわかりません。
実際に見て初めて、なるほどゾウというのはこういう動物だったのかと理解できます。
私たちが何かを論じているとき、まさにこういうことをやっているのです。
ゾウの鼻だけで、ゾウの全体像を把握しようとしてしまうようなことを
やってしまっているわけです。それで仮説が山のように出てきてしまうのです。
そしてA説を有力ととらえるグループと、B説を有力ととらえるグループと
C説、D説、...といろいろなグループが分派してくるのです。
けれども結局の所、仮説の証明はできずに分からずじまいで終わってしまうのです。
地上にいる限り、このように完全にはわからないことばかりです。
けれども、天においては完全に知ることができます。
すべてを、完全に知ることができるようになるからです。
地上の人生は、もっと神を知りたい、もっと神を知りたい、
もっともっと神に近づきたい、の繰り返しです。
完璧に知ることはできないのですが、より神を知ることを求め続けて生きるのです。
【今日の聖書】
愛は決して滅びない。
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
コリントの信徒への手紙一 13章8〜10節