困窮の末
1.神は困窮していたやもめにエリヤを養わせようとしておられた
預言者エリヤは、雨が降らず飢饉が続いていた時に、神から
シドンのサレプタに行き、そこに住むように命じられます。
シドンは、ガリラヤ湖の北方の地中海沿岸にある町です。
また主の言葉がエリヤに臨んだ。
「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。
わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」
列王紀上 17章8〜9節
神は、1人のやもめに、エリヤを養わせようとされたのです。
飢饉の真っただ中で、大の大人一人を養うということは、
普通なら、相当の資産家か、食糧の豊富な家に住んでいる人でなければと思いますが
実のところは、裕福でも何でもなく、
あと一握りの粉と少しの油しかないような、究極の困窮状態の
子育て中のやもめに、養わせようとされたのです。
2.サレプタにいたそのやもめは究極の困窮状態にいた
やもめには、焼いたパンなどありませんでした。
ただ壺の中に一握りの小麦粉と、
瓶の中にわずかな油があるだけだったのです。
彼女は答えた。
「あなたの神、主は生きておられます。
わたしには焼いたパンなどありません。
ただ壺の中に一握りの小麦粉と、
瓶の中にわずかな油があるだけです。
わたしは二本の薪を拾って帰り、
わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。
わたしたちは、それを食べてしまえば、
あとは死ぬのを待つばかりです。」
列王紀上 17章12節
辛うじて、あと一食食べれるかどうかの危機的状況だったのです。
そんなやもめの所に、空腹で宿なしのエリヤを養わせようと
神はエリヤを遣わされたのです。普通なら非常識と思われることでした。
3.究極の困窮状態にもかかわらずやもめに対してパンをくださいと願った
普通だったら、「パンがないなら他をあたります」と言って帰って行ったことでしょう。
しかし、それでもなおエリヤは求めているのです。
もう普通で考えたら、何て無茶なと言われそうです。
エリヤは言った。
「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。
だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、
わたしに持って来なさい。
その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。
列王紀上 17章13節
何て厚かましい願いだろうと、そう思ってしまいます。
「まず自分が先ですか!その後に私たちですか?」
けれどもエリヤの言葉は、続きます。
なぜならイスラエルの神、
主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。」
列王紀上 17章14節
「主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」
と言うのです。まず私に与えれば、主が助けて下さるよと言うのです。
これこそが、やもめに対する信仰のチャレンジだったわけです。
エリヤが、図々しかったわけではないのです。神からのチャレンジだったのです。
そしてこのやもめは、異邦人にもかかわらず、エリヤの言葉通りに実行したのです。
やもめは行って、
エリヤの言葉どおりにした。
こうして彼女もエリヤも、
彼女の家の者も、
幾日も食べ物に事欠かなかった。
列王紀上 17章15節
エリヤの言葉通りにすると、エリヤの言葉通り
主が、不思議な助けを与えて下さったのです。
壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならなくなったのです。
むすび.やもめは神からの信仰のチャレンジに見事に応えた
絶望的な困窮状態でも、それでもなお神の預言者に与えて、
神によって豊かにされて、困窮状態を抜け出すこと
それを神は、計画されていたのです。
それが、神の計画されていた御業だったのです。
もし、元々裕福だったなら、そのような御業は起きませんでした。
もうぜった絶命の窮乏状態だったからこそなのです。
「もうだめだ、この先生きていくことはできない、もう死んでしまおう」という、
絶望的な状況下で、困窮状態にありながらでも、それでもなお
神の預言者エリヤに、なけなしの食物を与えるという信仰の行ないによって、
神は見事に、その家族を助け出されるのです。
神は無理難題を突きつけられたのではなく、信仰のチャレンジを与えられたのです。
神は奪おうとされたのではなく、豊かに与えようとされていたのです。
やもめがまずエリヤにパン菓子を与えた後、粉と油が無限に湧き出て来ました。
神の国と神の義を第一とするなら、私たちの必要は与えられ続けていくのです。
主は私たちの牧者であって、私たちには乏しいことがないのです。
【今日の聖書】
「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。
わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」
列王紀上 17章9節