ナイフとフォーク
ステーキを食べる場合、ナイフとフォークが必要になります。
ナイフだけを2本渡されても、フォークだけを2本渡されても
ステーキを、切ることはできません。ナイフとフォークが一本ずつ必要です。
私たちは、似た者同士が集まりやすい傾向にあります。
フォークの集まりのように、なりやすいと言えます。
そうなると、どうなるでしょうか?
フォークだけでは、パスタを食べることはできても
ステーキを切って食べることが、できないのです。何本あっても同じです。
フォークでは、肉を抑えることはできても、肉を切ることができないのです。
そこが、フォークの限界です。ナイフにもなるフォークはありません。
フォークに切れ味の鋭い部分があったら、口に入れられなくなります。
フォークには、作られた時から「切る」という役割はないのです。
「肉を切るものこそ必要だ!」といって、逆にフォークを全部捨てて
ナイフばかり集めてしまっても、それでも肉は切れません。
ナイフとともに、肉を押さえつけるフォークが必要なのです。
さらに言えば、そこにスープが出てきたらどうでしょう?
ナイフとフォークがあっても、スプーンがなければ飲めません。
ナイフとフォークでは、スープはすくえないので飲めないのです。
デザートのフルーツが出てきたらどうでしょうか?
フォークはフォークでも、小さなフォークが必要となります。
もしアイスクリームが出てきたら?小さなスプーンが必要となります。
食器を揃える場合は、いろんな種類の違ったものを揃える必要があるのです。
人間の体も、同じです。
顔の中に耳も鼻も口もなく、目だけだったらどうでしょう?
食べれないし、嗅げないし、聞こえないのです。
それぞれに違った役割を持つ、違うものが集まっているからこそ
からだ全体として、うまく機能しているのです。
教会も同じです。
ナイフとフォークでは、同じ食器でもその役割が全く違います。
両方必要なのであって、どちらかだけが必要なのではありません。
たとえナイフが100本以上あったとしても、フォークの代わりにはならないのです。
教会はキリストのからだです。
似た者同士の集まりではなく、違ったもの同士の集まりなのです。
ナイフの人もいれば、フォークの人もいるのです。
はじめは、フォークばかりの集まりのように、
似た者同士が集まってしまうかもしれませんが、
いつまでも、そうであってはなりません。
フォークばかりが集まっていたところに、ナイフが飛び込んできたら...
ナイフは仲間外れとなるところですが、実は大歓迎なのです!
似てない者同士が集まるところこそ、教会なのです。
【今日の聖書】
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」
と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。
もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
そこで神は、御自分の望みのままに、
体に一つ一つの部分を置かれたのです。
コリントの信徒への手紙一 12章14〜18節