失望に終わらない
1.イエスを信じる者は失望に終わることはない
1.1 パウロはイザヤ書28章16節を引用している
イエスに信頼を置くものは、決して失望に終わることはありません。
主を信じる者は、だれも失望することがないのです。
聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」
と書いてあります。
ローマの信徒への手紙 10章11節
旧約聖書に、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と
書いてあると、パウロはローマの信徒たちに説明しています。
1.2 ペトロも同じイザヤ書28章16節を引用している
ペトロもパウロ同様、手紙の中で同じ箇所を引用しています。
聖書にこう書いてあるからです。
「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
これを信じる者は、決して失望することはない。」
ペトロの手紙一 2章6節
1.3 失望するという言葉
この失望するという言葉は、以下のような言葉になります。
失望する
辱める,恥をかかせる,恥じさせる,侮辱する,
失敗或は当て外れに終らせる;
[受動]恥じる,赤面する.
2.信じる者はあわてることはない
これは、イザヤ書からの引用です。
それゆえ、主なる神はこう言われる。
「わたしは一つの石をシオンに据える。
これは試みを経た石
堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。
信ずる者は慌てることはない。
イザヤ書 28章16節
新約聖書では「失望することがない」となっていますが、
イザヤ書本来の言葉は、「あわてることはない」となっています。
旧約聖書のあわてるという言葉は、以下のような言葉になります。
あわてる
急ぐ,急がせる,
(Hiphil)すばやく行動する,急いで行く,急いで来る,
喜ぶ,興奮する
1) to haste, make haste, hurry
1a) (Qal) to make haste
1b) (Hiphil)
1b1) to show haste, act quickly, hasten, come quickly
1b2) to enjoy, be excited
3.「あわてる」と「失望する」の密接な関係
「あわてる」と「失望する」は、意味としては違います。
「あわてる」というのは、突然のことに動揺することで
「どうしよう!どうしよう!」というパニック状態のことです。
それに対して「失望する」というのは、「もうだめだ」という状態です。
意味は違うのですが、この2つは連続します。
「どうしよう!どうしよう!」とあわてて、「ああもうだめだ」と、失望します。
あわてふためいて、だめなことがわかると失望する、
こういう流れになります。
ですから意味は違うのですが、同じ状況で起こることになります。
たとえば、朝になって「宿題やってなかった!どうしよう!」とあわてて
結局、「もう時間がない、だめだ今日は先生に叱られる」と失望に至ります。
「どうしよう」「もうだめだ」の流れです。
大学入試の時に、勉強していなかったところが出題されると
「しまった!ここは勉強してなかった!どうしよう?」とあわててしまい
「これはだめだ」と失望してしまいます。
入試不合格の経験者によれば、「あわてること」と「失望すること」が
ほとんど、同時にやってきたといいます。
勉強していなくても何とかなるだろうという楽観主義は、冷や汗に終わったのです。
むすび.イエスを信じる者はあわてることも失望することもない
イエスを信じる者は、失望することはありません。
十字架の時の絶望は、復活の希望に続いているのです。
私たちの望みは、天における永遠の命なのです。
イエスを信じる者は、あわてることはありません。
イエス・キリストの再臨の時、確実にイエスとともに天に行くことができるのです。
決してあわてることは、ないのです。
【今日の聖書】
盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、
あなたがた自身よく知っているからです。
人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、
突然、破滅が襲うのです。
ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、
決してそれから逃れられません。
テサロニケの信徒への手紙一 5章2〜3節