今日のできごと


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2020/2/15(土)

 
白鹿城本丸跡

毛利元就もうりもとなり VS 尼子義久あまごよしひさ

 白鹿しらが城は、尼子の本拠地月山富田がっさんとだ城の支城として建てられています。
 永禄年間は尼子晴久の義兄・松田左近誠保まつださこんまさやすが城主でした。
 ところが、永禄5年(1562)安芸の毛利元就が出雲に侵攻してきます。

 元就は、月山富田城と、この白鹿城の連絡を絶つために、白鹿城の南の
 宍道湖に面した丘陵、現在の天倫寺を含む一帯に、洗合あらわい城(荒隈城)を築きます。
 さらに毛利元就の次男吉川元春きっかわ もとはるが、白鹿城の北方に真山しんやま城を築いて陣を置きます。

 この真山城を拠点として、毛利軍は白鹿城を攻めるのです。
 毛利軍は白鹿城を包囲して戦います。籠城戦を1年続けるのですが、兵糧も水も断たれ
 永禄6年(1563)遂に、白鹿城は落城してしまいます。

 このとき、左近は脱出して助かるのですが、
 左近の妻は自害し、一族郎党多数が討ち死にしています。
 この白鹿山では、多くの人が血を流し亡くなっているのです。

 このようにして、尼子にとって重要な支城であった白鹿城が落城した結果、
 尼子の本拠地であった月山富田城にも、毛利軍の攻撃が迫ります。
 永禄9年(1566)篭城をしていた尼子義久は、遂に月山富田城を開城するに至ります。

 その後、月山富田城は、毛利の家臣らが居城し、
 慶長16年(1611) 堀尾忠晴が松江城に移った後に、廃城となりました。
 こうして月山富田城の時代から、松江城の時代へと移り変わっていったのです。

 このように松江や出雲地域一帯は、戦国時代、
 尼子対毛利の、激しい戦いの場となって、多くの人が命を落としているのです。
 その結果、毛利に対する怨恨が、少なからず残ってしまったようです。

 その後の江戸時代は、この地では戦がなかったため松江城も攻められることなく
 現在に至っているようです。
 現在松江市内には、真山城跡、白鹿城跡などが残っていて実際に行くことができます。

 【今日の聖書】
 殺してはならない。
 出エジプト記 20章13節


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