今日のできごと


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2020/1/13(月)

 

ないがしろにしてはならない

1.正義、慈悲、誠実がないがしろにされていた

 イエス・キリストは、律法学者たちとファリサイ派の人々に対して
 「あなたたちは、正義、慈悲、誠実をないがしろにしている」と指摘しています。
 そして、「それらこそ行うべきだ」と語るのです。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
 薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な
 正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。
 これこそ行うべきことである。
 もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
 マタイによる福音書 23章23節

 律法学者たちとファリサイ派の人々は、聖書を読み、学び、教え、
 聖書の戒めを、忠実に行おうとしていた人々だったのですが、
 正義、慈悲、誠実をないがしろにしていたというのです。

正義
 @裁き,裁判,審判,判決;有罪宣告,刑罰.
 A判断,判定,Tテモ5:24.
 B(判定の基準)公平,公正,正義,マタ12:18.
慈悲
 憐憫,慈悲,同情,憐れみ(の思いと行為)
誠実
 @(能動的に)信じること,信頼すること,信頼,信仰
 A(受動的に)信じられること,信頼に耐えること,
   信頼できる(当てになる)こと,信憑性(しんぴょうせい)
   真実,忠実,信義,誓約,
  (信じて間違いないという)証拠(確実の)保証,確証

2.正義、慈悲、誠実の逆が行われていた

 これらをないがしろにしていたということは、
 これらのことを、実行していなかったということになります。
 実行していなかったということは、その反対を行っていたということになります。

正義の反対  悪、不公平、間違った判断、不正な裁き
慈悲の反対  冷酷、薄情、無常
誠実の反対  ごまかし、うそ、約束を破る、裏切り行為

2.1 正義の逆

 正義を行わないということは、正義ではなかったということになります。
 聖書を学びながら、その実正義の反対の悪を行っていたということです。
 公平でも公正でもなく、正しい判断をせず、裁きを曲げていたのです。

2.2 慈悲の逆

 慈悲、すなわち憐れみの心がなかったということは、
 冷酷で薄情だった、ということになります。
 隣人愛に欠けていたわけです。

2.3 誠実の逆

 誠実ではなかったということは、物事に対して真実ではなく
 ごまかしたり、約束を平気で破ったり
 嘘をついたり裏切ったりしていた、ということになります。

3.正義、慈悲、誠実を学んでいたはずなのにできていなかった

 聖書には、義と愛が記されています。
 それを学びながら、その逆を行っていたところに驚きを隠せません。
 罪人であるということは、そいういうことなのです。

 良いことを学んでも、その逆を行ってしまうのです。
 パウロも、ファリサイ派でした。律法を厳しく学んでいたのです。
 しかしそのパウロが言っています。

 わたしは、自分のしていることが分かりません。
 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
 ローマの信徒への手紙 7章15節

 パウロは、誰よりも厳しい律法教育をガマリエルの元で受けていたのです。
 そのパウロですら、「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」
 と語るのです。

 わたしは自分の望む善は行わず、
 望まない悪を行っている。
 ローマの信徒への手紙 7章19節

むすび.ないがしろにしたくないのにしてしまう罪人に救いが与えられた

 わかっていても、悪を行ってしまう自分がいる。
 これが、パウロの偽らざる告白でした。
 パウロはかわいそうな人だったなあと、他人事のように言うことはできません。

 私たちも同じなのです。
 できていないのに、できているはずだと思い込もうとしてしまうのです。
 律法学者たちとファリサイ派の人々は、まさにそうだったのです。

 聖書の律法のとおりに、収入の十分の一の献げ物は献げていたので、
 自分たちは正しいんだと、思い込もうとしていたのです。
 けれども、もっと重要な正義、慈悲、誠実、すなわち義と愛に欠落していたのです。
 
 私たちも、同じなのです。
 もし自分は正しいと思っているとしたら、それはまだ気づいていないだけなのです。
 ある時あるタイミングで、できない自分に気づくのです。自分もまさに罪人の一人だと。

 その罪の大きさに、愕然としてしまうのです。
 自分で何とか出来ると思っていたのに、どうすることもできないことに気づくのです。
 だからこそ、イエス・キリストによる罪の赦しが必要なのです。

 【今日の聖書】
 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
 死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。
 このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、
 肉では罪の法則に仕えているのです。
 ローマの信徒への手紙 7章24〜25節


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