ああ勘違い!
聖書の中には、勘違いした話も出てきます。
てっきりこうだと思ったのに、まったく違った!逆だった!
こういう話が出てきます。
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
そこで、シモン・ペトロのところへ、また、
イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。
「主が墓から取り去られました。
どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
ヨハネによる福音書 20章1〜2節
これのどこが勘違いかというと、
「主が墓から取り去られました」という言葉がそれです。
マグダラのマリアは、てっきり
「イエス・キリストの遺体が、誰かの手によって取り去られてしまった」
と思い込んでしまったのです。
誰かが墓から運び出して、どこかに置いてしまった、
一体どこに置かれているのだろうと、困惑しているのです。
この場合の勘違いは、困惑へとつながっています。
十字架で死なれたあげく、遺体まで取り去られてしまったという、
「絶望感」がにじみ出ています。
その後に続くのは、「一体どうすればいいの?」と言う言葉だったでしょう。
勘違いから、本来しなくても良かった困惑に陥り、悲観してしまっていたわけです。
イエス・キリストは、墓から取り去られたのではなく
ご自分で、墓から出て行かれたのです。
どこかに置かれていたのではなく、ご自分でどこかに行かれていたのです。
まったく悲観することも、困惑することも必要なかったのです。
いやその逆に、躍り上がって喜ぶべきそういう状況だったわけです。
マリアは大きな勘違いをしていたのです。
【今日の聖書】
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。
テサロニケの信徒への手紙一 5章16〜18節