罪の認識
何かの犯罪を犯してしまったら、自分は罪人だと認識せざるを得ません。
しかし、親の言うことをちゃんと聞き、悪いことには手を出さず、
誘惑にも負けずに、まじめに生きてきたらどうでしょうか?
自分が罪人であるなどという認識は、持たないのではないでしょうか?
逆に他の人の悪を見て、「彼は何という悪いことをしているのか!」と
人を責めて、自分を正しいとしてしまうのではないでしょうか?
イエスの時代のファリサイ派や律法学者たちが、まさにそうでした。
ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、
「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
マタイによる福音書 9章11節
人は罪人だと思い、自分は正しいと思っていたのです。
イエスはその姿を見て、それを指摘するのです。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、
不正な者、姦通を犯す者でなく、
また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
ルカによる福音書 18章11節
ファリサイ派の人が「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と
祈ったと語るのです。事実、多くのファリサイ派の人々がそういう思いだったのでしょう。
自分の罪に気づいていなかったもう一人の人は、イエスに対してこう語っています。
すると彼は、
「先生、そういうことはみな、
子供の時から守ってきました」と言った。
マルコによる福音書 10章20節
私は完璧無欠ですと言っているのです。
罪の認識というのは、非常に困難なことがわかります。
誰もがそのように、「自分は正しい」と思い込みやすいことが如実に示されています。
まさに私自身が、そうであると言えます。
あの人は悪い、でも私は正しい。彼は間違っているが、私は間違っていない。
いかに自分の罪を正しく認識するか、ここがとても大切な所です。
自分の罪を公に言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、罪を赦してくださるからです。
自分に罪がないと言うなら、罪の赦しもあり得ないのです。
【今日の聖書】
自分に罪がないと言うなら、
自らを欺いており、
真理はわたしたちの内にありません。
自分の罪を公に言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、
あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの手紙一 1章8〜9節