罪人であるということ
私たちすべては、罪をもって生まれてきています。
罪人であるということは、罪を犯す可能性を常に持っているということです。
それが法律に触れることであれば、犯罪になります。
犯罪にならないまでも、罪の行いや考えは多々あります。
隣人を憎んでも犯罪にはなりませんが、これは明かに罪の行為です。
隣人に対して怒りを覚えても、同じです。嘲笑したり馬鹿にしても同じです。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は
『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、
『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書 5章21〜22節
心の中で考えた時点で、それは罪の行為になります。
心の中では、毎日、何らかの罪を犯してしまいます。
また、なすべき善を行わないことも、罪になります。
人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、
その人にとって罪です。
ヤコブの手紙 4章17節
そうなってくると、日々の生活はもはや、罪のオンパレード以外の何物でもありません。
自分で考えている以上に、無数の数えきれないほどの罪を犯しながら
毎日、生活していることに気づくのです。
「いかに罪を犯さないで生活するか」というよりも、
「いかに無数の罪の中の1つでも、犯さないで生きていくか」
という具合になるわけです。
罪人であるということは、自分の力で罪を犯さないで生きていくのは
「不可能である」ということなのです。
どこを探しても、そんな人はいないのです。
「今日も良いことだけを考えて、良いことだけを行って生きていきましょう」
絶対に無理です。不可能です。
自分の力だけで、これができる人はいないのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
ローマの信徒への手紙 3章10節
どうしても神の力が必要なのです。
聖霊の力をいただいて、罪の誘惑に打ち勝って生きていくしかないのです。
誰も聖霊によらなければ、肉の欲望と罪に勝てないのです。
わたしが言いたいのは、こういうことです。
霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、
決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
ガラテヤの信徒への手紙 5章16節
聖霊に従うというのは、私たちにとってしてもしなくてもいいことではなく
必要不可欠なことなのです。
聖霊によらなければ、罪に打ち勝って生きていくことはできないからです。
【今日の聖書】
人がなすべき善を知りながら、
それを行わないのは、
その人にとって罪です。
ヤコブの手紙 4章17節