最後まで
1.癒された人に対して「家に帰るように」と命じられた
昨日に引き続き、イエスに癒されて家に帰った中風の人の話ですが
彼は、イエスによって素晴らしい奇蹟的な癒しを体験させられました。
普通自分にとって素晴らしいことをしてくれた人とは、長くいたいと思います。
しかし彼は、癒されるとすぐにそこを立ち去っています。
それは、イエスの言葉によるものでした。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
マルコによる福音書 2章11節
イエスは、彼に対して
「起き上がり、床を担いで
私に従いなさい。」とは言われていません。
「起き上がり、床を担いで
家に帰りなさい。」と言われています。
2.徴税人マタイなどには「従いなさい」と言われている
徴税人であったマタイなどには、「わたしに従いなさい」と言われています。
イエスはそこをたち、通りがかりに、
マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、
「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。
マタイによる福音書 9章9節
しかし、中風であったこの人に対しては、
「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われているのです。
その人その人によって、使命が違っていることがわかります。
3.家に帰ることこそが中風だった人にとって重要な使命だった
マタイにとっての使命は、イエスに従って行動を共にすることでしたが
中風を癒していただいた人にとっては、家に帰ることだったのです。
一見すると、家に帰ることはイエスから離れてしまう寂しいことのように思えます。
使命としても、イエスと行動を共にする方がよっぽど重要に思えます。
もしも家に帰ってしまったら、そこにイエスはおられないし、
イエスの言葉も聞けないし、その働きも体験できないのです。
家に帰ることの重要性は、あまり感じられません。
しかし、イエスが家に帰るように言われると
この人は家に帰ったのです。
「起き上がること」これは癒されたので、難しくなかったでしょう。
「床を担ぐこと」これも、癒されている以上簡単にできることです。
「家に帰ること」これが、最も実行しにくいことだったのではないでしょうか?
イエスとまだまだ一緒にいたい。できることなら、行動も共にしたい。
と考えるのも、無理のないことです。レギオンを追い出された人もそうでした。
しかし、イエスの願いは違っていたのです。
この人にとって必要だったことは、家に帰ることだったのです。
「床を担いで家に帰ること」これこそが、この人の使命だったのです。
このことによって、そこにいた人々がまず神を賛美しました。
その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、
神を賛美した。
マルコによる福音書 2章12節
ということは、この時点でこの人が自分の住んでいる家に帰ったら
そこでどんなことがそれ以降起きていくことになるかは、想像に難くありません。
みんなが大喜びして迎え入れることは、自明だったでしょう。
そしてその家の人ばかりか、近所の人たちも、やはり皆驚き、
「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、
神を賛美したのではないでしょうか?
むすび.イエスの命令は最後まで忠実に行う
この中風の人は、3つの命令を受けています。
「起き上がること」「床を担ぐこと」「家に帰ること」この3つです。
3つとも実行に移す必要があったのです。
癒やされて終わりではなく、家に帰って終わりだったのです。
最後まで、きちんと主の命令に従ってそれを成し遂げることが必要なのです。
中途半端で、途中で投げ出してしまってはならないのです。
【今日の聖書】
わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。
そうすれば、わたしのいるところに、
わたしに仕える者もいることになる。
わたしに仕える者がいれば、
父はその人を大切にしてくださる。」
ヨハネによる福音書 12章26節