今日のできごと

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2019/6/21(金)

 

信仰とは?

1.信仰とは、目に見えている 事実を確認することではない

 1.1 信仰とは 見えていない 事実を確認すること

 信仰とは、何でしょうか?
 望んでいる事柄を確信し、
 見えない 事実を確認することです。

 信仰とは、
 望んでいる事柄を確信し、
 見えない事実を確認することです。
 ヘブライ人への手紙 11章1節

 すでに実現していることについて、それがもし目で見えているとしたら
 それは見えてしまっていますから、そのことを信じるということはできません。
 それは、今もう目で見えている事実ですから、事実の確認となるだけです。

もし私が、目の前にリンゴを手に持って出しながら
「私は今リンゴを持っていますが、信じますか?」 と言ったとしたら、どうでしょう。誰もが「信じます」と言うでしょう。

 しかしそれは「信じます」とは言うものの、
 実際は信仰などではなく、「私が今リンゴを持っている」という
 事実の確認に過ぎないのです。

もし私が中身の見えないバッグを出して、
「この中にはリンゴが入っています。信じますか?
と言ったとしたら、どうでしょう?
その場合は、信じる人と信じない人とに別れるでしょう。
見えていない場合にこそ、信仰となり得るのです。
そして袋の中からリンゴを取り出して、
「リンゴです」と言ったら、そこにいる皆は、
「確かに彼は間違いなくリンゴを持っている」と
信じることができます。

 けれどもこの場合、それはもはや信じるというレベルではなく、
 単なる事実の確認と、なってしまうのです。
 見てしまったら、それは信仰の対象とはならないのです。

 1.2 復活したイエスを見た弟子たちは復活の事実を 信じたのではなく確認した

 復活したイエス・キリストは、復活後に弟子たちの前に現れました。

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、
 自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
 そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
 弟子たちは、主を見て喜んだ。
 ヨハネによる福音書 20章19〜20節

 イエスは復活して、その姿を弟子たちの前に現わされたのです。
 そして弟子たちは、復活したイエスを見て、喜んでいるのです。
 この時弟子たちは、イエスが復活したことを信じたのでしょうか?

 この時弟子たちは、イエスの姿を見て イエスが復活した事実確認 しただけであって、
 イエスが復活した事実信じた わけではないのです。※1
 そこにイエスが立っておられるのですから、信じるも信じないもそれは現実だったのです。

※1 厳密に言えば、弟子たちはイエスがどのようにして復活したのかは見ていませんでしたので
  その見ていなかった復活現象を、実際には見てはいなかったけれども、
  それが確かに起きたのだと信じたとは言えます。しかし今回の場合は、墓に葬られたはずのイエスが、
  本当に弟子たちの前に現れたかどうかを信じるか否かということについて言及しています。
  弟子たちにとっては、目の前に現れた姿を見ていますので事実を確認したことになります。

 1.3 復活の事実を確認した弟子たちはイエスこそ真の救い主と信じた

 それでは、そこで弟子たちが信じたことは何だったでしょうか? 

 弟子たちは、イエスが復活した事実確認しただけで
 そのことを信じたわけではありませんでしたが、そのことを確認することによって
 「イエスこそ『本当のメシア』だ」ということを信じたのです。

 復活の事実を確認することを通して、そう信じたのです。
 目で見た事実の確認が、信仰につながっているのです。
 したがって弟子たちは、見ないで信じたのではなく、

 復活されたイエスを見て確認して、「イエスこそ『本当のメシア』だ」
 と信じたのです。弟子たちは、復活のイエスの姿を見て信じていますが、
 私たちには、見ないでイエスを信じることが要求されています。

 本来的な信仰とは、見ないで信じることなのです。

2.トマスに対して、見えない事実を確認信じることが命じられている

 2.1 トマスは復活のイエスを見ていなかったので信じられなかった

 そこにいなかったトマスは、イエスが復活した事実について確認できませんでした。
 そのためトマスは、まずイエスが復活した事実からして、信じられませんでした。
 だから「イエスこそ『本当のメシア』だ」ということも、信じられなかったのです。

 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
  また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 ヨハネによる福音書 20章25節

 「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、
  また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
 と言う言葉は、自分の目で見て手で触って、はじめて信じられますと言う言葉です。

 「見なければ信じない」というトマスの言葉から、
 私たちは、見ていないことを信じることの難しさを教えられます。
 トマスだけでなく、私たちにとっても見ていないことを信じるというのは

 それ程簡単にできることではありません。
 その言葉を語っている人を、余程信頼しているのでなければ
 人から聞いたことを見ないで信じることは、難しいことです。

 2.2 トマスも復活のイエスを見て信じた

 そのトマスも、復活のイエスと出会うことになります。

 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
 戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
 「あなたがたに平和があるように」と言われた。
 ヨハネによる福音書 20章26節

 トマスが一緒にいる所に、イエスが現れたのです。
 イエスが復活したということは、トマスにとっても目の前の事実となったのです。
 トマスは復活のイエスを見てから、「イエスこそ『本当のメシア』だ」信じました。

 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
 ヨハネによる福音書 20章28節

 イエスに向かって、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をしています。
 トマスも他の弟子たちと同様に、復活の主イエスを見て確認して信じたのです。

 2.3 イエスは見て信じたトマスに対して見ないで信じるように命じておられる

 イエスは、トマスに語ります。

 それから、トマスに言われた。
 「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
  また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
  信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 ヨハネによる福音書 20章27節

 トマスは本来、復活のイエスに会う前に、見ていないままで
 イエスが復活した事実信じるべきだったのです。
 聞いただけで、信じるべきだったのです。

 イエスはトマスに言われた。
 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 ヨハネによる福音書 20章29節

 トマスは、復活したイエスの姿を見ないままで
 イエスが復活した事実信じて、その上でさらに、イエスの姿を見ないままで
 「イエスこそ『本当のメシア』だ」ということも、信じるべきだったのです。

3.今自分が見ていない事実を確認する信仰を、神は私たちに求めておられる

 私たちは、どうでしょうか?
 当時の弟子たちのように、イエスが復活した事実について実際に見てはいません
 そこが当時と今の大きな違いです。ですからそこに「信仰」が必要となります。

 当時の弟子たちと私たちの大きな違いは、復活のイエスに「実際に会ったかどうか」ですが
 実は、実際に見て信じることよりも、見ていないのに信じる方が幸いなのです。
 ですから、今実際にイエスにお会いしてはいませんが、それでも信じるなら

 当時の「実際に復活したイエスの姿を見た人たちよりも、幸い」ということになります。
 私たちは見ないで信じることができるという、恵みを与えられているのです。
 今ここにイエスがその姿を現されたなら、見ないで信じる幸いは消え去ってしまいます。

 私たちは、見ないでイエスが復活した事実を信じ、
 「イエスこそ『本当のメシア』だ」信じるのです。
 それこそが、今私たちに神が要求されていることで、

 その信仰によって、私たちは救われるのです。
 その信仰を神は願っておられるのです。ですから、今イエスは見えないのです。
 「あなたは、今見えていなくても信じますか?」と神は私たちに問われているのです。

むすび.信仰とは、神に信頼を置いて見えない事実を確認すること

 あることが実際起こっていても、もしそれを見ることができないならば
 また、あることが今現在、まだ実際には起きておらず見ることができないならば
 見ることができないからこそ、そこに信仰が必要となります。

 「イエス・キリストによる罪の赦しは、見えないですが信じますか?
 「イエス・キリストの与えて下さった永遠の命も、見えない事実ですが信じますか?
 「イエスによって入れるようになった天国も、見えない事実ですが信じますか?

 これが神から私たちに対する、問いかけなのです。
 そしてそれこそ、神が私たちに求めておられることなのです。
 信仰とは、見えない事実を確認することなのです。

 そしてそれは、救いだけにとどまりません。
 この地上における人生のいろいろな場面でも、必要とされているのです。
 今あなたが神に求めているものすべてについて、その答えを見ていなくても信じますか?

 魂の救いをはじめとして、問題の解決、信仰の成長、必要の満たし、などなどを
 「今見ていなくても 信じますか?」と、神は問いかけておられるのです。

 【今日の聖書】
 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、
 見えない事実を確認することです。
 ヘブライ人への手紙 11章1節


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