今日のできごと


 前日  翌日  今月  去年の今頃  トップへ  更新
2019/6/13(木)

 
イソヒヨドリ 6月12日(水)撮影

たとえどんな過去があっても主は用いてくださる

1.イエス・キリストに用いられた多種多様な人々

 どんな人物が、イエス・キリストに用いられたでしょうか?
 聖書を見てみると、多種多様な人々が出てきます。

 @ 漁師 

 まずペトロとヨハネに代表される、漁師です。
 ペトロの兄弟アンデレや、ヨハネの兄弟ヤコブも漁師でした。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、
 二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、
 湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
 マタイによる福音書 4章18節

 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、
 父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
 彼らをお呼びになった。
 マタイによる福音書 4章21節

 A 徴税人 

 12弟子のひとりマタイは、徴税人でした。

 イエスはそこをたち、通りがかりに、
 マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、
 「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
 マタイによる福音書 9章9節

 徴税人ザアカイも、救われた後は不正な取り立てを返し
 貧しい人々に施しをして、イエスを伝えることに大きく用いられた事と思います。

 そこにザアカイという人がいた。
 この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
 ルカによる福音書 19章2節

 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。
 「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。
  また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
 ルカによる福音書 19章8節

 B 羊飼いたち 

 イエスの誕生の時、ヨセフとマリアたちに証しをしたのは羊飼いたちでした。

 その光景を見て、羊飼いたちは、
 この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
 ルカによる福音書 2章17節

 C 悪霊に憑かれていた人 

 イエスの復活を真っ先に知らせたマグダラのマリアは、
 イエスに解放されるまでは、7つの悪霊に憑かれていました。

 イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、
 まずマグダラのマリアに御自身を現された。
 このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。
 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、
 このことを知らせた。
 マルコによる福音書 16章9〜10節

 D ファリサイ派 

 使徒パウロは、元々ファリサイ派で、ファリサイ派と言えば
 イエスからその間違いを、厳しく指摘されていた人々でした。

 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、
 ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。
 律法に関してはファリサイ派の一員、
 フィリピの信徒への手紙 3章5節

 E イエスを迫害していた人

 さらにパウロは、イエスを信じる人々を迫害し、
 投獄して、死に至らせることまでしていた人でした。

 わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、
 殺すことさえしたのです。
 使徒言行録 22章4節

 F 医者

 パウロと共に働いたルカは、医者でした。

 愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています。
 コロサイの信徒への手紙 4章14節

2.まさかこんな人が!という人物

 ファリサイ派で大迫害者だったパウロが、用いられたというのは
 かなり驚くべき事ではあります。
 「まさかあの迫害者パウロが!」という感じだったでしょう。

 けれども彼は、聖書をガマリエルのもとで熱心に学んでいましたし
 神に仕えることについては、熱心であった人でした。
 イエスがメシアであるはずがないと、誤解していただけのことです。

 誤解によって神に従うその方向性を、間違えていただけのことだったのです。
 自分は熱心に神に仕えているつもりでいたのが、
 実は、神が送られたメシアを受け入れていなかったということなのです。

 熱心に神に仕えているつもりで、実は熱心に神に歯向かっていたということだったのです。
 その誤りに気付いた後は、メシアであるイエスを熱心に伝えて行っています。
 神に熱心に仕えようとする姿勢は、イエスに出会う前も出会った後も同じなのです。

 ですから、以前は大迫害者だったと言えども、
 神に熱心に仕えようと思って、迫害をしていたのですから、
 神など信じないというような、不信仰だったわけではないのです。

3.まさかこんな人が!という極めつけの人物

 パウロよりも、もっともっと「まさかこんな人が!」という人物がいます。
 パウロよりも、もっともっと「まさかこんな人が!」という極めつけの人物
 それは、悪霊レギオンを宿していた人です。

 イエスが陸に上がられると、
 この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。
 この男は長い間、衣服を身に着けず、
 家に住まないで墓場を住まいとしていた。
 ルカによる福音書 8章27節

 この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、
 鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、
 それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。
 ルカによる福音書 8章29節

 この人は墓場を住まいとしており、
 もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。

 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、
 鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、
 だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。

 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、
 石で自分を打ちたたいたりしていた。

 マルコによる福音書 5章3〜5節

 この男性は、長い間、衣服を身に着けず、裸のままで生活していました。
 住んでいたところは、家ではなく墓場でした。
 もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかったのです。

 度々足枷や鎖で縛られましたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、
 だれも彼を縛っておくことはできない程でした。
 鎖を引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられ

 昼も夜も、墓場や山で叫んだり、
 石で自分を打ちたたいたりしていたのです。
 こんな男が、イエスによって大きく用いられると、誰が思ったでしょうか?

 おそらく、誰も思わなかったでしょう。
 墓場に裸で住んで、鎖を引きちぎるほどの力をもって
 鎖を引きちぎり、足枷は砕き、昼も夜も墓場や山で叫び、

 石で自分を打ちたたいて傷つけるような、そんな凶暴な男。
 しかも、それが悪霊に憑かれることによってなされていた、
 もうどうすることもできない、人物。

 できることなら、自分たちの住んでいる町からいなくなってほしい、とさえ思えるような
 そんな人物です。正気に戻ることなど、考えられもしなかった人物だったのです。
 正気に戻ることさえ、誰も想像できない人物だったにもかかわらず

 彼は悪霊を追い出された後、正気に戻ったどころか、
 彼の住んでいたゲラサ地方で、イエス・キリストを証しすることになり
 その地方で、大いに用いられることになるのです。

 イエスが自分にしてくださったことを、ことごとく町中に言い広めるようになったのです。
 イエスを伝えるために、大きく用いられ、大きな働きをしたのです。
 以前は裸で墓場に住んで叫んでいた人が、イエスによって解放されて変えられたのです。

 「自分の家に帰りなさい。
  そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」
 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。
 ルカによる福音書 8章39節

むすび.たとえどんな過去があっても主は用いてくださる

 私は過去、こんなひどい状態だった、
 過去の罪を考えると、もう神に用いられることなどできない、
 そう感じている方もおられるかもしれません。

 しかし聖書を見る時、凄まじくひどい過去を持っていた人が
 逆に、大きく用いられている姿を見ることができるのです。
 ちょうど今までの大きなマイナスの人生に、イエスによってマイナス1をかけられた

 そんな感じなのです。
 −100×−1=100ですが、−100万×−1=100万なのです。
 −100億×−1=100億なのです。−100兆×−1=100兆なのです。

 過去を振り返って、くよくよ悩む必要はありません。
 イエス・キリストの十字架の血潮は、過去のすべての罪を赦しきよめるのです。
 あなたのすべての罪を赦し、どんな過去があってもクリアされリセットされるのです。

 イエス・キリストの十字架の血潮による赦しを信じて、
 すべての罪が赦された確信と感謝をもって、
 前に向かって、進んで行くのです!
 
 キリストを信じる前は、ファリサイ派で大迫害者だったパウロが語っています。

 「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
  神がキリスト・イエスによって上へ召して、
  お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」

 後ろのもの、すなわち罪の中に生きてきた過去を忘れ、前のものに全身を向けつつ
 天において神がキリスト・イエスによって与えてくださる賞を得るために
 目標を目指して、この地上の信仰生涯をひたすら走っていくのです。

 【今日の聖書】
 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。
 なすべきことはただ一つ、
 後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
 神がキリスト・イエスによって上へ召して、
 お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
 フィリピの信徒への手紙 3章13〜14節


 前日  翌日  今月  去年の今頃  トップへ  更新