甘い?
イエスはペトロに対して、甘かったんじゃないか?
そういう疑問を持たれる方も、もしかしたらおられるかもしれません。
イエスの命がかかっている重大な場面で、保身を謀って嘘をついて逃げたペトロ。
そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、
「そんな人は知らない」と誓い始めた。
するとすぐ、鶏が鳴いた。
マタイによる福音書 26章74節
イエスはそのペトロを、何も責めたりせずに逆に大きく用いておられます。
イエスは言われた。
「わたしの羊を飼いなさい。
ヨハネによる福音書 21章17節
「少々、甘過ぎはしないか?」
「涙を流して、男泣きに激しく泣いてはいるが、嘘をついた事実は変わらず、
イエスを呪うような言葉を語ったことも、なかったことにはできない。」
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた
イエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
マタイによる福音書 26章75節
「これはちょっと、甘すぎるのではないか?」
こんな考えが浮かんできても、不思議ではありません。
逆に、「甘すぎる」と考える方が自然なことなのかもしれません。
しかし、イエス・キリストはペトロに対して優しく対応されています。
はたから見れば甘すぎるような、そんな対応です。
しかし、これが罪を赦すということであるということが明白に示されているのです。
「甘すぎる」と思う、それ程に私たちの罪は大きいのです。
ペトロに限らず、私たちの罪というのは大きすぎるのです。
何もせずに、ただ信じるだけで救われるというのは、
確かに甘すぎると、思われることかもしれません。
けれども、もし罪の赦しのために、その罪に応じた、何らかの厳しい行いが要求された
とするなら、誰も罪の赦しなど受けられはしないはずです。
それほど人間の罪は小さくもなければ、軽くもないのです。
「信じるだけで何もしなくても良いなんて、甘すぎる」
そこまでしないと、罪の赦しは実現しないのです。
それ程の大きな恵みを、私たちは今受けているのです。
【今日の聖書】
また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、
そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。
エフェソの信徒への手紙 3章18〜19節