一同が一つになって集まっていた
イエスの復活後、50日目のペンテコステの日に
弟子たちはじめ、そこにいた人々に聖霊が注がれました。
その時人々はいったい、どんな状況だったでしょうか?
1.喜びにあふれていた
一つには、すでに復活のイエスに出会っていましたから
喜びにあふれていたということが、あげられるでしょう。
ユダヤ人を恐れる思いは、きれいに取り除かれていたことでしょう。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。
弟子たちは、主を見て喜んだ。
ヨハネによる福音書 20章20節
2.約束の言葉を信じて待っていた
もう一つは、イエスが言われた次の約束の言葉を信じて
その言葉通りに行動していた、ということがあげられます。
当初は、復活を信じられなかった弟子達でしたが、信じる者へと変えられていました。
そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
父の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水で洗礼を授けたが、
あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
使徒言行録 1章4〜5節
3.一つになって集まっていた
さらにもう一つは、みんながそれぞればらばらにいたのではなく、
一つになって集まっていた、ということがあげられます。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
使徒言行録 2章1節
いや集まっていたのは、何もこの時だけではなく復活前もそうだったではないか?
と言われるかもしれません。確かにそうです。
復活されたイエスに初めて出会った時も、一つになって集まっていました。
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、
自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
ヨハネによる福音書 20章19節(前半)
けれども、同じ一つになって集まるという状況でも、中身が全く違っています。
復活直後は、失望落胆して、恐れおののいて部屋に鍵をかけている
すなわち、イエスが復活するという信仰のかけらももたない状況でした。
ただ単に、「ユダヤ人が自分たちを捕えに来たらどうしよう?」という恐怖と、
「イエスは王にならずに十字架で死んでしまった」という絶望
だけしかないような、そんな集まり方でした。
しかしペンテコステの日の集まり方は、違っています。
イエスが生きておられるという、喜びにあふれ、
イエスの約束されたことが必ず起こるという、信仰に固く立っていたのです。
そのようにして、一同が一つになって集まっていたところに
イエスの約束された通りに、聖霊が注がれたのです。
そしてその聖霊の力によって、人々は大きく用いられていくのです。
むすび. 一つになって集まっていたそこに聖霊が注がれた
一つになって集まっていたということは、心を合わせていたということです。
自分は一人でも大丈夫だ、というのではなかったのです。
みんなと一緒にいなくてもいいだろう、というのでもなかったのです。
聖霊傾注の前、一同は一つになって集まっていたのです。
そこに聖霊が注がれて、そこから始まって行ったのです。
もし一つになって集まっていなかったとしたら、聖霊は注がれたでしょうか?
私たちもいよいよ、一つになって集まっていましょう。
心を合わせる所そこに、聖霊は注がれ
主のみわざが、進んで行くのです。
【今日の聖書】
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、
彼らが座っていた家中に響いた。
使徒言行録 2章1〜2節