自動ブレーキ
最近の車には、衝突防止のためのシステムが組み込まれています。
いわゆる、自動ブレーキと言われているものです。
運転者がブレーキを踏まなくても、危険を察知して自動的に止まってくれます。
販売店の方から「この車は時速30キロまででしたら、確実に障壁の前で停止しますよ」
「信じられますか?」と言われた場合、何と答えるでしょうか?
「それはカタログに載ってますから、信じますよ」と答えるでしょう。
「どうですか試乗して確かめてみますか?」
「いいですよ」
ここまでは、普通に受け答えできると思います。
ところが「それではアクセルを踏んで、30キロまでスピードを出して
そのまま何もしないでいてくださいね」と言われたらどうでしょう?
「20キロ程度ならできるけど、30キロはちょっとやめておきます」
こう言った場合、「信じますよ」と口で言ったことを
行いで、否定してしまっていることになります。
口では「信じます」と言っておきながら、行いで否定してしまっているのです。
これは、「私は信じていません」ということの証明になってしまいます。
もし信じたら、行動もその通り信じた行動になるはずなのです。
その行動が信じていない行動であるなら、口で信じますと言ってもそれは偽りになります。
1.本当に赦されたと信じたら隣人全員を赦すはず
もし「イエス・キリストによって、私のすべての罪は完全に赦されたと信じます」
という信仰を、本当に持ったとしたらどうなるでしょうか?
他のあらゆる人の、あらゆる罪を赦すようになります。
私のあんなに大きな罪が赦されたのだから、私も隣人のわずかな罪を赦します、
ということになるのです。
2.赦せませんという人がいるならその信仰は偽りになる
「絶対に私はあの人を赦せません」という人が、心の中にひとりでもいるとしたら
わたしは赦されていないから、私もあの人を赦せませんということになってしまいます。
「私はイエスに赦されていません」ということを、告白しているようなものなのです。
それは、先に言っていた
「イエス・キリストによって、私のすべての罪は完全に赦されたと信じます」
という信仰告白は実は嘘でした、という証明になってしまいます。
3.信仰が本物かどうかは行動でわかる
もし「イエス・キリストによって、私のすべての罪は完全に赦されたと信じます」
というのであれば、「私はあの人を絶対に赦せません」という人が皆無になるはずです。
赦せない人、憎んでいる人、恨んでいる人が、まったくいない状態になるはずなのです。
その人の口から、「私はあの人を赦せません」と言う言葉を聞くことがなくなります。
「赦せないから口を利きません」ということは、あり得なくなるはずなのです。
どんな人をも赦すその行動によって、赦されたことが証しされていくのです。
キリストの十字架の血潮による赦しを信じるということは、そういうことなのです。
もし「イエス・キリストの赦しを信じます」といいながら
「私はあの人を赦せません」というのであれば、その信仰は偽物となってしまうのです。
むすび.赦されたことを赦すことを通して証しする
イエス・キリストによって、自分自身のとてつもなく大きな罪が完全に赦されたことを
真実に信じるなら、どんな人をも赦すことによってそれを証ししていくことになります。
生涯、そのような「行動の伴う真実な信仰」を、持ち続けていきたいと願います。
【今日の聖書】
魂のない肉体が死んだものであるように、
行いを伴わない信仰は死んだものです。
ヤコブの手紙 2章26節