聖書に精通していたにも関わらず
パウロはイエスに出会う前までは、ファリサイ派のひとりでした。
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、
ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。
律法に関してはファリサイ派の一員、
フィリピの信徒への手紙 3章5節
「律法に関してはファリサイ派の一員」と語っていますが
それだけファリサイ派が、律法に精通していたことを、伺い知ることができます。
パウロはファリサイ派の一員として、厳しい律法の教育を受けていました。
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。
そして、この都で育ち、
ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、
今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。
使徒言行録 22章3節
ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けたということは
聖書(今の旧約聖書)に精通していたということになります。
事実彼の聖書知識が優れていたことは、彼の手紙や使徒言行録からわかります。
救われる前のパウロは、聖書に精通していましたが、
イエス・キリストを信じる人たちを、ものすごい勢いで迫害していたのです。
イエス・キリストが聖書に記されている救い主だとは、信じられなかったのです。
ここからわかることは、何でしょうか?
聖書をよく読んで、よく学んで知っているだけでは、
人は救いに至らないということです。
聖書の知識が豊富であっても、それで救われているわけではないのだ
ということです。聖書知識がいかに豊富であっても、
救われる以前のパウロのように、イエスを否定してしまう場合もあるのです。
救いのために必要なことは何でしょうか?
そこに、聖霊が働かれることなのです。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
聖霊を受け入れる素直で柔らかい幼子のような心が、必要なのです。
【今日の聖書】
聖霊によらなければ、
だれも「イエスは主である」とは言えないのです。
コリントの信徒への手紙一 12章3節(後半)