隣人を愛することができますように
1.私たちは限りない愛で神に愛されている
私たちは、神の限りない愛で愛されています。
何もしなくても、このままの状態で愛して下さる神の愛を知って、
驚き喜んでいるのです。
だから、その愛に応えて生きようとします。
神の愛に応え、神を愛し、人を愛して生きようとします。
こんなに素晴らしいことがあったんだ!と喜び、人を愛そうとします。
2.愛されているから人を愛したいと思うのにそれができない現実
ところが、愛そうと思って行動するのですが、
思うように愛することができない現実に直面します。
赦せなかったり、つい怒ってしまったり、裁いてしまったりが起こります。
めったにそういうことがなければまだしも、結構頻繁に起こるのです。
神に愛されている事を知ったから、「人を愛そう」という願いが生まれますが
自動的に人を愛することができるようになるかと言えば、そうではないのです。
神に愛されていることを知って信じていても、それだけでは
人を真実に愛し続けることはできない、という現実に必ず直面します。
愛を知って喜んで、人を愛そうと思うのですができないのです。
3.愛せない原因は残存する根深い罪
私たちは、互いに愛し合うように、
神によって、素晴らしく造られている存在です。
けれども、私たちの内側にある罪は、私たちが思っている以上に根深いのです。
なかなか罪の性質である自己中心から、抜け出せないのです。
罪のあるままでその罪を赦されて、そのままの姿で愛されているのですが
私たちが自分で思う程、赦された罪から脱却することは簡単ではないのです。
自分を犠牲にするイエスのような愛で、人を愛することができないのです。
悪口を言われ、怒鳴られ殴りかかられたら、途端に怒りが沸き上がるのです。
笑顔で挨拶したのに、無視されて通り過ぎられたら穏やかではいられないのです。
神に愛されていることを知って、感情は喜びに輝きますが
だからと言って、愛する力が自動的に増し加わってくるわけではないのです。
確かに愛したいという思いは沸き上がります。しかし実行力に欠けるのです。
4.自分に愛がないことを認識する事
神の愛に応えて、真実な愛で人を愛そうと思うなら
まず自分自身に、愛する力がないことを認める必要があります。
「神に愛されていることを知って信じたから、それで愛せるようになった」
というのではないのです。
「神に愛されていることを知って信じたけれども、
まだまだ自分には、人を真実に愛し続ける力がありません」と認める事が必要です。
「ザアカイは、イエスに会った途端に瞬間的に愛の人になったのでは?」
「愛されていることを体験したら、愛する人に変わるのでは?」
「愛されたら、愛が自分の内に生まれるのでは?」と言われるかもしれません。
確かにザアカイは、イエスを信じてすぐに
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。
まただれかから何かだまし取っていたらそれを四倍にして返します。」と言っています。
この告白は、「もはや不正に取り立てることは致しません」
「不正を償います」という、悔い改めの告白に他ならないのです。
「貧しい人に施します」という言葉も、悔い改めの告白に他ならないのです。
「今までは、施しなどしませんでしたが、
もはや貧しい人に対して、見て見ぬふりを致しません」
という悔い改めです。
イエスに出会ったその瞬間「愛の人」に変えられたかのように思えますが
「愛の人に変わった」というよりもむしろ、自分の罪を悔い改めていると言えます。
悔い改めの言葉に、悔い改めに伴う愛の決断が含まれているのです。
しかもこれは愛する決断であって、愛する行動ではありません。
その後のザアカイのことは、聖書には出てきません。
ザアカイが、どこまで実行できたのかは知る由もないのです。
実行できたとは思いますが、それにしてもザアカイの生活の全領域において
完璧な愛の人になっていたのかどうかは、不明です。
イエスに会って変えられはしましたが、ザアカイもごく普通の人間です。
やはり愛の不足に悩んだことは、間違いないと思います。
ザアカイを完璧な愛を持つ完全無欠な人間と、美化することはできないのです。
むすび.どうしても祈り求める必要がある
イエスの十字架によって、確かに自己中心の罪は赦されています。
けれどもだからと言って、その途端に自己中心が全くなくなったわけではないのです。
神中心に生きようとするのですが、自己中心性も残っているのです。
罪は赦されただけで、残っているのです。クリスチャンは罪のない人ではないのです。
罪が赦されているだけです。その罪をかなぐり捨てるのは、私たちの責任です。
罪を捨てながら、罪から極力離れようとして生きてゆくのです。
「罪から離れ、罪を捨て去って生きられますように、
自己中心を捨てて、人を愛して生きられますように
力をください」と祈り求める必要があるのです。
確かに私たちは神に愛されています。無限の愛で愛されています。
けれども自分の内には、友のために命を捨てて愛する程の愛はないのです。
愛は、聖霊の結ばせる実なのです。聖霊によらなければ愛せないのです。
「だから、人を愛することができるように力をください」と祈り求める必要があります。
愛は、神から頂くものなのです。
「人を愛することができるように、聖霊で満たしてください」と祈るのです。
【今日の聖書】
愛を追い求めなさい。
コリントの信徒への手紙一 14章1節(前半)