今もすべての人にあてはまる十戒
道路交通法の中には、制限速度や信号に従って走行することなど
自動車で道路を走る上で知らなければならない規則が、記されています。
けれども「自動車が離陸して空を飛ぶ上での規則」は定められていません。
当然です。現在、そのような機能をもつ車が売られていないからです。
そもそもできないことまで、わざわざ規則にしません。
「自動車が道路から離陸する場合は、電柱や電線のないところに限られる」
などという規則は、たとえ定めたとしても該当する車が現在は売られていませんので
規則を作るだけ、無駄になります。
規則というのは、その可能性があることだけが定められるものです。
1.十戒は犯してしまう可能性があるからこそ定められた戒め
聖書に、十戒という神から与えられた定めが記されています。
出エジプトしたイスラエルの民に対して、神がモーセを通して与えられた戒めです。
@真の神だけを神としなさい
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
出エジプト記 20章3節
A偶像を造ってはならず拝んでもならない
あなたはいかなる像も造ってはならない。
上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、
いかなるものの形も造ってはならない。
出エジプト記 20章4節
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
出エジプト記 20章5節 (前半)
B神の名をみだりに唱えてはならない
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
出エジプト記 20章7節
C安息日を聖別しなさい
安息日を心に留め、これを聖別せよ。 出エジプト記 20章8節
D父と母を敬いなさい
あなたの父母を敬え。
そうすればあなたは、あなたの神、
主が与えられる土地に長く生きることができる。 出エジプト記 20章12節
E殺してはならない
殺してはならない。 出エジプト記 20章13節
F姦淫してはならない
姦淫してはならない。 出エジプト記 20章14節
G盗んではならない
盗んではならない。 出エジプト記 20章15節
H偽証してはならない
隣人に関して偽証してはならない。 出エジプト記 20章16節
I隣人の物を欲しがってはならない
隣人の家を欲してはならない。
隣人の妻、男女の奴隷、牛、
ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。 出エジプト記 20章17節
この十戒は、当時のイスラエルの人々に対して与えられた戒めですが
当時のイスラエルの人々が、陥ってしまう可能性があるからこそ
戒めとして与えられていました。
「神の民イスラエルが、神を神としないはずなどあり得ない」ということでしたら
この十戒の第一戒や二戒は、定められなかったことでしょう。
たとえ神の民イスラエルであったとしても、充分その可能性があったからこそ
十戒として定められていたのです。
2.十戒は私たちにもあてはまる戒め
そしてこの戒めは、当時のイスラエルの民だけにではなく、
今も、全人類に当てはまります。
神を神とすることは、全人類にとって、
いつまでも変わることのない、最も大切な戒めです。
殺してはならないのも、今も変わりません。
そしてここが大事なポイントですが、
「わたしは殺人などそんな恐ろしいこと、考えたこともありません」
と思っている人にも「殺してはならない」という戒めが当然当てはまるということです。
「殺してはならない」というのは、一部の殺人犯だけに当てはまるのではなく、
全員にあてはまるものなのです。
殺意というのは、すべての人がもち得る物なのです。
次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。
ローマの信徒への手紙 3章10節
3.十戒は私の内側にある「罪」の恐ろしさを示す
思わずかっとなってしまって、気が付いたら...ということがあり得ます。
時と場合によっては、状況によっては誰もが殺人犯になり得るのです。
それが、私たちのもっている罪の恐ろしさです。罪は本当に恐ろしいものです。
私たちは紛れもなく、その恐ろしい罪を持った罪人なのです。
殺人を犯してしまった人だけが、特別なのではありません。
私だけは絶対大丈夫などと言える人は、どこにもいないのです。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ローマの信徒への手紙 3章23節
罪人であるということは、十戒で禁止されていることを
行ってしまう可能性を、充分にもっている存在であるということです。
殺人もしかり、姦淫もしかり、盗みもしかりなのです。
最初の人アダムの息子のカインは、弟アベルを殺してしまいました。
カインは何とひどい人だろうと、私たちは思います。
しかし私の内側にある罪は、カインのもっていた罪と同じです。何ら変わりありません。
むすび.神に祈って罪から遠く離れて生きていく
カイン以来、人間の歴史は殺戮の歴史となっています。
殺し合う戦いの歴史なのです。カインと同じなのです。
そして殺戮をしてきた人も私たちも、同じ罪を持って生まれた罪人なのです。
「自分は人殺しなどをしたことがない」ということができても、
心の中でその人に対して腹を立てたり、「この世から消えてしまえ」と思うなら
その人を殺してしまったことと同じなのです。(参照 マタイ5章21〜22節)
法的には裁かれなくても、神の前には同じ罪なのです。
自分のもっている罪の恐ろしさを覚え、決して自分自身の罪を軽く考えずに
いつも神に祈って助けをいただいて、罪から遠く離れて生きていく者と
なっていきたいと思います。神は今日も助けて下さいます。
【今日の聖書】
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」
という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
わたしは、その罪人の中で最たる者です。
テモテへの手紙一 1章15節