今日のできごと


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2018/9/20(木)



もし人を赦さないなら...

 しかし、もし人を赦さないなら、
 あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
 マタイによる福音書 6章15節

 もし人を赦さないなら
 父なる神も、私の過ちをお赦しにならないと断言されています。
 たとえそれがどんな罪であろうと、その人を赦さないことは罪です。

 「人を赦さない」ということは、
 「私も神に赦されていません」という、信仰告白になってしまいます。
 神に赦されていることを否定してしまうことになるのです。

 「私も赦されなくていいです」ということと同じです。

 つまり、せっかくイエス・キリストが私を赦すために
 十字架で、血潮を流してくださったのにもかかわらず、そのキリストの
 十字架の赦しを「受け取りません」ということになってしまうのです。

 「赦されなくていいです」ということは、実は恐ろしいことなのです。
 「私はイエス・キリストを信じていません」ということになるのです。
 その最後は、永遠の滅びなのです。悪魔と同じ最期を遂げることになります。

 イエス・キリストは自分を殺そうとしていた人々、いや実際に殺した人々を
 赦そうとなさいました。「父よ彼らをおゆるし下さい」と祈られたのです。
 自分を殺す人であっても、赦すのです。

 自分を傷つけた人、自分の物を盗んだ人、自分の伴侶を奪った人、
 だました人、強奪した人、いじめた人など、たとえどんな人であっても、
 私たちが赦さなくていい人は、ひとりもいないのです。

 それでは泣き寝入りではないか、被害者はどう救済するのか?と思われるでしょう。
 罪を犯した人に対する裁きは、神が必ずしてくださいます。
 その人に対する裁きは、神に任せればよいのです。

 イエス・キリストは、十字架の上で
 まさにその模範を、示してくださいました。
 正しくお裁きになる方、すなわち神にすべてをお任せになっていたのです。

 ののしられてもののしり返さず、
 苦しめられても人を脅さず、
 正しくお裁きになる方にお任せになりました。
 ペトロの手紙一 2章23節

 神はどうされたでしょうか?
 キリストを復活させられたのです。
 まさにイエスこそ来るべきメシア、救い主であることを証明されました。

 十字架にかけた側が、間違っていたことが明らかになったのです。

 裁判に持ち込んでも、たとえそこで勝ったとしても根本的な解決にはなりません。
 たとえ勝訴したとしても、多額の賠償金を得たとしても、それで解決はしません。
 そもそも、お金で解決することではないからです。

 その人を完全に赦すことなしに、自分自身の心の闇は去らないのです。
 恨みを抱きながら生きることは、罪を捨てずに生きることであって、
 結局、自らを滅ぼすことになってしまいます。正当な恨みなどありません。

 すべての恨みは、捨て去るべきものなのです。
 心の平安は、完全に赦すところに与えられるのです。
 赦せないという心の中に、平安はあり得ません。

 さらに言えば、裁判所の判決も完璧ではありません。
 しかし神の裁きは、実に正確で完璧な裁きです。
 裁判所の判決にはどうしても間違いが含まれますが、神の裁きには間違いがないのです。

 人の裁きには、冤罪や罪の見逃しが起き得ますが、
 神の裁きには、冤罪もなければ見逃しもないのです。
 人を裁くのは、実際は神の領域なのです。

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
 マタイによる福音書 7章1節

 私たちのなすべきことは、裁くことではなく赦すことです。
 これはオプションではなく、必須事項なのです。
 心の中から「絶対赦せない!」という人を、まったく取り除いてしまうのです。

 今まで赦さなかったことは、紛れもなく罪ですので、
 今までその人を赦せなかったことを悔い改めて、すべての人を赦すのです。
 自分にして欲しいことを、人にもするのです。

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、
 あなたがたも人にしなさい。
 これこそ律法と預言者である。」
 マタイによる福音書 7章12節

 私自身が神に赦され、神との関係を回復して頂いたように、
 そのように隣人を赦して、関係を回復してゆくのです。
 隣人を自分のように愛するというのは、そういうことなのです。

 神はその加害者も、救われて欲しいと願っているのです。

 神は、すべての人々が救われて
 真理を知るようになることを望んでおられます。
 テモテへの手紙一 2章4節

 加害者としてではなく、隣人としてみるのです。
 その隣人が、イエス・キリストを信じて救われることを願い求めるのです。
 パウロは初めはキリストに敵対していましたが、神は彼を赦して用いられたのです。

 人を赦すということは、「私はイエス・キリストの十字架の血潮によって
 すべての罪を赦されているのです」という、信仰告白に他ならないのです。
 赦されているという信仰は、人を赦すという行いになって表れるのです。

 【今日の聖書】
 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、
 わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 マタイによる福音書 18章35節


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