異言
公立の小中学校や高校では、決して教えてくれない事柄が
聖書の中にはいくつも出てきます。
その一つが、聖霊のバプテスマです。
聖霊に満たされた時に、異言を語って神をほめたたえていたことが
聖書に記されていますが、こういう話は学校では教えてくれません。
教会で聖書を開いて、初めて知ることになります。
ところが異言は、聖書の中ではごくごく当たり前に出てくるのです。
フィリポがサマリアに伝道に行った時、男も女も信じましたが、
その後、ペトロとヨハネが遣わされて人々に聖霊が授けられました。
ペトロとヨハネが人々の上に手を置くと、
彼らは聖霊を受けた。
使徒言行録 8章17節
コルネリウスの家においても、信じた人々の上に聖霊が降っています。
割礼を受けている信者で、ペトロと一緒に来た人は皆、
聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれるのを見て、大いに驚いた。
異邦人が異言を話し、また神を賛美しているのを、
聞いたからである。
使徒言行録 10章45〜46節(抜粋)
パウロがエフェソに着いた時、パウロはこう言っています。
彼らに、
「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、
彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った。
使徒言行録 19章2節
パウロは信じたら当然聖霊を受けるはずだという、
そのような前提の下で、語っています。
当時の教会では、イエス・キリストを信じたらせいれいを受けるというのは
至極当然なことだったことがわかります。
いやしやしるしや不思議な業が当然のように行われていましたが、
聖霊も当然のように受けていたことがわかるのです。
【今日の聖書】
異言を語る者は、
人に向かってではなく、
神に向かって語っています。
それはだれにも分かりません。
彼は霊によって神秘を語っているのです。
コリントの信徒への手紙一 14章2節