今日のできごと


 前日  翌日  今月  去年の今頃  トップへ  更新
2018/4/2(月)



同じかたを見ていても

1.イエスに対する判断は真っ二つに割れていた

1.1 イエスの噂は広まっていた

 仮庵の祭りで、イエスのことがいろいろとささやかれていました。

 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。
 「良い人だ」と言う者もいれば、
 「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
 ヨハネによる福音書 7章12節

1.2 イエスに対する見解は割れていた

 「良い人だ」と言う者もいれば、
 「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた、ということですから
 イエスに対して、まったく正反対の見方をしていたことがわかります。

1.3 なぜイエスに対する見解は割れていたのか?

 なぜこれほど、きっぱりと別れてしまったのでしょうか?
 現在の私達から見れば、「群衆を惑わしていなかった」ことは
 明らかですが、当時は惑わす者だとみなされていました。

 惑わす者だと考えていた人の、根拠はどこにあったのでしょうか?

2.誤った判断の原因は事実誤認から来ていた

2.1 メシアはベツレヘムで生まれると預言されていた

 惑わす者だと思っていた人々は、正しいメシア像を自分の中に持っていたはずです。
 そしてそれと比較すると、合っていないため偽物だと判断していたと考えられます。
 まずメシアの出身地ですが、それはベツレヘムでなければなりません。

 エフラタのベツレヘムよ
 お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
 お前の中から、わたしのために
 イスラエルを治める者が出る。
 彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
 ミカ書 5章1節

 「ミカ書によれば、メシアはベツレヘムで生まれるはずだ」
 当然そう思っていたことでしょう。
 東方の学者たちが、メシアはどこに生まれるかと尋ねた時もそうでした。

 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
 メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
 彼らは言った。
 「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で
  決していちばん小さいものではない。
  お前から指導者が現れ、
  わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
     マタイによる福音書 2章4〜6節

 すぐに「ユダヤのベツレヘムです。」と回答しているのです。
 これこそ、祭司長たちや律法学者たちの常識的見解だったわけです。
 ですから、まずここでつまずいていたのでしょう。

2.2 イエスはナザレで生まれているではないか!

 この言葉を聞いて、群衆の中には、
 「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、
 「この人はメシアだ」と言う者がいたが、
 このように言う者もいた。
 「メシアはガリラヤから出るだろうか。
  メシアはダビデの子孫で、
  ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、
  聖書に書いてあるではないか。」
 こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
 ヨハネによる福音書 7章40〜43節

 「メシア(救い主)は、ベツレヘムで生まれるはずなのに、
  しかもダビデの子孫で王であるはずなのに、
  この男はナザレ生まれの、しかも大工ではないか!」

 こういう理論だったのでしょう。

2.3 ナタナエルも当初は同じ見解だった

 これについては、フィリポに誘われたナタナエルも言っています。

 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言った
 ヨハネによる福音書 1章46節(抜粋)

 もし、ミカ書5章の預言をあまりよく知らない人であれば、
 別にナザレの大工だったとしても、おかしいとは思わなかったでしょう。
 なまじ知っていたゆえ、ナザレの大工を受け入れることができなかったのです。

 確かにイエスはナザレの大工の息子でしたが、生まれたのはベツレヘムでした。
 ミカ書の預言通りに、ベツレヘムでお生まれになっていたのです。
 それが当時の人々によく知られていたかと言えば、そうではなかったようです。

3.事実を正確に知らないことは判断を誤ることにつながる

3.1 反対者はイエスがベツレヘム生まれと知らなかった

 反対者はそこまで知らなかった、ということなのです。
 単にナザレの大工だということで、まさかベツレヘムで生まれているとは
 思わなかったのでしょう。確認が甘かったのです。

3.2 反対者はそこまで知らなかったため判断を誤ってしまった

 反対者は、イエスがベツレヘムで生まれていたとは知らなかったため、
 判断を誤ってしまった、ということになります。
 事実を正確に知らないと、判断を誤ってしまうということです。

 確かにナザレの大工であったことは事実でした。けれども
 ベツレヘムで誕生したことも事実だったわけです。
 ナザレの大工という情報だけを知っていても、不十分だったのです。

3.3 正しい判断をするためには事実を正確に知ることが必要だった

 事実を知っていることは大事なことですが、途中からしか知らない、
 途中までしか知らないというのは、逆に危険なことでもあります。
 この場合、全く知らなかった方が、正しい判断ができていたのかもしれません。

むすび.

 聖書をよく学んで知っていたはずのファリサイ派の人々や律法学者は、
 メシアについて学んで、どういう方であるか知っていたにもかかわらず、
 実際のメシアであるイエスに出会った時、正しく認識できませんでした。

 それは、聖書を正しく理解できていなかったという面も確かにありますが、
 イエスご自身を、正しく知らなかったということにも大きな原因があります。
 もし、ベツレヘムで生まれたことを知っていたら、彼らの判断も違っていたことでしょう。

 私達も、同じような過ちを犯しやすいものです。
 私達の周りで起こる様々なことについて、正しい判断をするためには
 事実を「正確に知る」ことが必要になってきます。

 事実を誤認して、間違った判断をしてしまうことのないよう
 神に祈りつつ、注意深く正しい情報を入手しながら、
 判断して進んでいきましょう。

 少しの情報で、性急な判断をしてしまって、
 大間違いをしてしまわないように、
 注意深い行動をとっていきたく願っています。

 【今日の聖書】
 彼らの中の一人で、
 以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。
 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、
  何をしたかを確かめたうえでなければ、
  判決を下してはならないことになっているではないか。」
      ヨハネによる福音書 7章50〜51節


 前日  翌日  今月  去年の今頃  トップへ  更新