今日のできごと


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2018/4/1(日)



同じものを見ていても

1.墓の番を命じられた番兵の意識

 ローマ帝国支配下のエルサレムにおいて、通常の兵士の仕事は
 治安の維持ということだったでしょう。
 ところがイエス・キリストの十字架の直後の兵士たちには

 ちょっと変わった仕事が待っていました。
 墓の番です。墓から遺体が盗まれないように夜通し番をするのです。
 兵士たちにとってそれは、どういう気分だったでしょうか?

 実際に遺体が収められた墓の前に立って、夜中に番をするというのは
 気持ちの良いものではなかったと思います。
 明るくてもそうですが、夜で暗ければなおのこと、嫌なことだったと思います。

2.墓に行った婦人たちの意識

 一方お墓に行った婦人たちは、どうだったでしょうか?
 今まで仕えて従ってきたイエスのお体に、香油を塗って差し上げなければ
 と思っていたことを考えると、それは死体ではあってもイエスの体ですから

 生前と同じように、慕い求めていたことでしょう。
 気持ちの悪い死んだ人の遺体ではなく、
 婦人たちにとっては、死んでしまってはいてもイエスのお体だったのです。

 怖いという気持ちは、ほぼなかったでしょう。
 逆に、その遺体に何としても油を塗らなければという
 必死な思いがあったことと思います。

3.意識の差がその後の反応に現されている

 天使が光り輝く姿で現れた時、兵士たちはそれを目撃して恐れおののき
 死人のようになりました。
 何もなくても夜のお墓ですから、不気味です。

 明け方と言えども、まだ暗い中でそこに突然天使が現れたらどうでしょうか?

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
 そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
 ヨハネによる福音書 20章1節

 朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリヤは墓に行ったようです。
 完全に日が昇って、明るい朝になっていたわけではなかったようです。
 暗かったのです。

 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
 マタイによる福音書 28章4節

 現れたのが幽霊ではなく、神からの天使だったにもかかわらず、その出現は
 夜のお墓で夜通し恐怖に耐えていた番兵たちの恐怖に、とどめを刺したわけです。
 けれども、婦人たちは別段変わりなく、その天使の語る言葉を聞いていました。

 天使は婦人たちに言った。
 「恐れることはない。
  十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
  あの方は、ここにはおられない。
  かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。
  さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
  それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
  『あの方は死者の中から復活された。
   そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。
   そこでお目にかかれる。』
  確かに、あなたがたに伝えました。」
 マタイによる福音書 28章5〜7節

 同じ遺体でも、それに対する意識が180度違ったため、こうなったのではないでしょうか?
 番兵たちと婦人たちの意識の差は、片や怖い死体、片や慕っていたイエス様のお体、
 という具合に、まったく正反対の大きな差だったわけです。

 突然光り輝く天使が現れた時、婦人たちは恐ろしさを感じてはいますが、
 死人のようにはなっていません。女性の方が男性よりも何かの時に強いという
 側面をもっているというのも、確かにあったと思います。

 しかしそれだけではなく、同じ遺体であっても
 その遺体を「お慕いしていたイエス様」と見ていたか、
 気持ち悪い死体と見ていたかという、その違いが大きかったように思います。

 もしかしたら、天使が番兵たちを死人のように倒れさせたのかもしれませんが
 もし天使が何もしていないのに、兵士たちが恐怖で死人のようになったとしたならば、
 おそらく、そういうことであったのではないかと思われます。

むすび.

 このように同じものを見ていても、その見方で感じ方が全く違ってくるのです。
 感じ方が違うだけにとどまらず、その後の反応や行動が全く違ってきます。
 イエスの遺体をどう見ていたか?そこに大きな差があったのです。

 イエスの遺体に対する一番「的確な見方」は、何だったでしょうか?
 それは「やがて復活する体だ」という見方です。それこそ
 神のご計画されていたことであり、イエスが繰り返し語っておられたことだったのです。

 当時の人々は、誰一人そのように見てはいませんでした。
 弟子たちも、婦人たちも、遺体が盗まれないよう番兵を置いた人々も
 誰ひとり、やがてよみがえる体だとは思っていなかったのです。

 敵対していた人々も、遺体が盗まれるかもしれないとは考えても
 まさか本当によみがえるなどとは、微塵も考えていませんでした。
 神の子と自称していた偽り者に過ぎないと考えていたからです。

 けれども、イエスはよみがえられました。
 そして、ご自分こそが本当の救い主であって、信じる者の罪を赦し
 永遠の命を与えて下さるのだということを示されたのです。

 イエス・キリストを信じる人は、たとえ地上の命を終えたとしても
 永遠の命をもって、神と共に永遠に生きるようになるのです。
 これこそが、聖書の教える最も大切な教え「福音」なのです。

 【今日の聖書】
 イエスは言われた。
 「わたしは復活であり、命である。
  わたしを信じる者は、死んでも生きる。
  生きていてわたしを信じる者はだれも、
  決して死ぬことはない。
  このことを信じるか。」
 ヨハネによる福音書 11章25〜26節


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