割礼を受けなければ救われない?
1.割礼を受けなければ救われないという教えが持ち込まれた
使徒時代のことですが、アンティオキアの教会に、
ある人々がユダヤから下って来て、
「割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていたと言います。
ある人々がユダヤから下って来て、
「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、
あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。
使徒言行録 15章1節
これは、完全に間違った教えです。
しかしこのような間違った教えを、教会の中で堂々と教えていたのです。
教会にとって最大の危機は、教えの混乱です。
いかに豊かで経済的に安定していても、人数が多く集まっていても
多くのイベントを行い、社会福祉事業を行っていたりしたとしても
そこにイエス・キリストの教えではない教えが、入り込んでしまっていたら
それはもう、キリストの体である教会とは言えなくなってしまうのです。
「イエス・キリストの十字架による罪の赦しを信じる」だけでは救われない
というのは、これはもう福音ではないのです。
福音でないものが教えられる所は、そこはもはや教会ではありえないのです。
2.パウロたちはエルサレム教会で協議した
パウロたちはその人々と論争をしますが、決着がつきません。
それは、とても激しい意見の対立と論争だったようです。
そこでパウロたちはエルサレムに上ることにします。そこで協議するためです。
それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、
激しい意見の対立と論争が生じた。
この件について使徒や長老たちと協議するために、
パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。
使徒言行録 15章2節
ところがエルサレム教会の中に、もともとファリサイ派だった信者の人々がいて
「異邦人にも割礼を受けさせなければならない」という
主張をしたというのです。
ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、
「異邦人にも割礼を受けさせて、
モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
使徒言行録 15章5節
そこで使徒たちと長老たちは、協議するために集まります。
議論を重ねた後、ペトロがコルネリウスの家での体験を踏まえて語ります。
割礼を受けていなかった異邦人にも、聖霊が与えられたことを証しするのです。
続いてバルナバとパウロが、異邦人世界への第1回伝道旅行の証をします。
最後にヤコブが、アモス書9章11〜12節のみ言葉を語り
異邦人も割礼を受けずに救われるという根拠を示し、決着がつくのです。
3.イエス・キリストの恵みは律法による神との交わりに終止符を打った
3.1 初めの神の命令は無割礼の男は民の間から断たれるという命令だった
なぜ割礼が、そんなに重要視されていたのでしょうか?
包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、
その人は民の間から断たれる。
わたしの契約を破ったからである。」
創世記 17章14節
神がアブラハムに割礼を受けるようにお命じになられた時、
もし割礼を受けない男がいたら、
その人は民の間から断たれると言われていたのです。
非常に厳しい命令でした。
割礼を受けなければ、民の間から断たれてしまうということなら
何が何でも割礼を受けなければならない、という考え方になるでしょう。
それが使徒言行録の時代に至るまで、綿々と受け継がれて来ていたのです。
3.2 “霊”によって心に施された割礼こそ真の割礼
ところが、パウロはそれに対してこう語っています。
@割礼も、律法を守ればこそ意味があり律法を破れば、割礼を受けていないのと同じ
あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、
律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。
だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、
割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。
ローマの信徒への手紙 2章25〜26節
すなわち、割礼を受けていても律法を守れなければ無割礼と同じで
割礼を受けていなくても、律法の要求を満たしていれば、
割礼を受けたのと同じことだというのです。
A内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、霊によって心に施された割礼こそ割礼
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、
また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。
内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、
文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。
その誉れは人からではなく、神から来るのです。
ローマの信徒への手紙 2章28〜29節
そして、肉体的な割礼ではなく、
心に施された割礼こそが、本当の割礼だと説明しているのです。
B割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切
キリスト・イエスに結ばれていれば、
割礼の有無は問題ではなく、
愛の実践を伴う信仰こそ大切です。
ガラテヤの信徒への手紙 5章6節
割礼ではなく、信仰こそが重要なのであるとパウロは語ります。
そうです。人は神の定められた律法を、完璧に守り行うことなど不可能なのです。
イエスの十字架による罪の赦しを、信じて受け取る以外に罪が赦される道はないのです。
3.3 イエス・キリストの十字架によって割礼に終止符が打たれた
イエス・キリストは、完全な贖いのための犠牲となられました。
そして、十字架にかかって罪の赦しを完成して下さったのです。
もはや、私たち側の行いは必要なくなりました。
けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、
人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、
更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、
御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。
ヘブライ人への手紙 9章11〜12節
割礼も、神殿も、動物の犠牲も、祭壇も、大祭司も不要になったのです。
イエス・キリストこそが、真の神殿であり、完全な贖いの供え物であり、
真の大祭司として来てくださったからです。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、
律法の終りとなられたのである。
ローマの信徒への手紙 10章4節 口語訳
今はユダヤ人も異邦人も、イエス・キリストによって一つの霊に結ばれて
父なる神に、近づくことができるようになったのです。
もはや割礼は不要になったのです。
それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、
御父に近づくことができるのです。
エフェソの信徒への手紙 2章18節
むすび.割礼を受けなければ救われないということではない
神はアブラハムに対して、割礼を受けるよう命じられました。
それは厳しい命令でしたが、イエス・キリストの十字架の時までの限定的命令でした。
イエス・キリストの十字架による救いの道が開かれた以上、不要となりました。
もはや割礼は、受ける必要のないものとなったのです。
いやむしろ、心に施された割礼こそ真の割礼として必要とされているのです。
イエス・キリストが十字架で「私の罪を赦すために」死んで下さり
「3日目によみがえってくださった」ということを、信じる事、
これこそが、今必要とされていることなのです。
この信仰によって私達は、自分自身の罪のゆるしを受け取ることになるのです。
救われるために、肉体に割礼を受けなければならないということは、
まったくあり得ません。割礼は救いのために、まったく必要のないことなのです。
愛の実践を伴う信仰こそ大切なのです。
【今日の聖書】
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように
異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。
また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に
何の差別をもなさいませんでした。
それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、
あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。
わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、
これは、彼ら異邦人も同じことです。」
使徒言行録 15章8〜11節