ラザロをも殺そうとするほどの間違った先入観
1.ラザロを殺そうとした祭司長たち
イエスが、ラザロを生き返らせたことによって、
それを目撃した多くのユダヤ人たちが、イエスを信じました。
マリアのところに来て、
イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、
イエスを信じた。
ヨハネによる福音書 11章45節
ラザロの復活は、イエスがまさに真実の救い主であることを示していました。
ところが、そのことは祭司長たちの大きな反発を招きます。
祭司長たちは「イエスは自分を神とする異端者だ」と決めつけていましたから
「これ以上、異端者に惑わされる人が起こされては困る」と考えたのです。
だからイエスだけでなく「イエスに生き返らされたラザロ」も居てくれては困る
と考えました。そのため祭司長たちは、ラザロを殺そうと謀りました。
イエスだけでなく、ラザロも殺してしまって証拠を隠滅しようとしたのです。
祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
ヨハネによる福音書 12章10節
2.祭司長たちの先入観は「イエスは神に背く異端者だ」
この時、ちょっと冷静になって、
「死んだ人を生き返らせるのだから、ひょっとして自分が間違っているかもしれない」
と考えて、聖書を読み返していたら、もしかしたら過ちに気づいたのかもしれません。
けれども、「イエスは異端者だ」という先入観を捨てなかったので、
自分たちの誤りに気づくこともなく、イエスを殺そうと思い、さらには
イエスに生き返らされたラザロに対しても、死んでもらおうと考えたのです。
先入観というのは、恐ろしいものです。正しい判断を、妨げてしまうからです。
先入観によって、祭司長たちは真実の神の子をまったく逆に捉えてしまい、
いくらイエスのなさる奇蹟の業を見聞きしても、それを悪魔の業と考えてしまい
神のなされるわざだと、信じられなくなってしまっていました。
エルサレムから下って来た律法学者たちも、
「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、
また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
マルコによる福音書 3章22節
もしイエスが神の子でないとするなら、
イエスは、自分を神とする恐ろしい不届き者となってしまいますから、
死刑にするしかなくなってしまいます。
「イエスを神の子として信じる」か、さもなくば「偽り者イエスを死刑にする」か、
どちらかの選択肢しかないわけです。
祭司長たちは、後者を選び取ってしまいました。
3.間違った先入観の生まれる理由
なぜ、祭司長たちは間違った先入観を持ってしまったのでしょうか?
3.1 正しい知識の不足
イエスについての、正確な知識が不足していたのです。
多くの人々は、イエスがベツレヘムの家畜小屋で生まれたことを知らなかったのです。
てっきりガリラヤのナザレで、生まれて育ってきたものとばかり思っていました。
「この人はメシアだ」と言う者がいたが、
このように言う者もいた。
「メシアはガリラヤから出るだろうか。
メシアはダビデの子孫で、
ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、
聖書に書いてあるではないか。」
ヨハネによる福音書 7章41〜42節
イエスはベツレヘムで生まれてないではないか、と言っているのです。
この人は、イエスがベツレヘムで生まれたことが、わかっていませんでした。
これに関しては、ナタナエルも同じです。
するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、
フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
ヨハネによる福音書 1章46節
確かにガリラヤのナザレで育っていますから、多くの人々は
ナザレ生まれだと、誤解してしまったことでしょう。
しかし人口調査で、ベツレヘムに行った時に生まれていますから
ナザレ生まれではなかったのです。それがわかっていませんでした。
ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、
マリアは月が満ちて、初めての子を産み、
布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。
宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書 2章6〜7節
3.2 正しい聖書理解の不足
間違った先入観はまた、自分たちの聖書理解の至らなさからきていました。
正しい聖書理解が不足していたことが、イエスの言葉からわかります。
そこで、イエスは言われた。
「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、
読んだことがないのか。
マタイによる福音書 12章3節
ダビデの行動を聖書で読んでなかったのか?と問いかけています。
さらに、律法についても言及されています。
安息日に神殿にいる祭司は、
安息日の掟を破っても罪にならない、
と律法にあるのを
読んだことがないのか。
マタイによる福音書 12章5節
創世記についても、引用されて問いかけています。
イエスはお答えになった。
「あなたたちは
読んだことがないのか。
創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
マタイによる福音書 19章4節
更に詩編8編も引用されて、問いかけています。
イエスに言った。
「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」
イエスは言われた。
「聞こえる。あなたたちこそ、
『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉を
まだ
読んだことがないのか。
」
マタイによる福音書 21章16節
詩編118編も引用されて、問いかけています。
イエスは言われた。
「聖書にこう書いてあるのを、まだ
読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』
マタイによる福音書 21章42節
また出エジプト記も引用されて、問いかけています。
死者の復活については、
神があなたたちに言われた言葉を
読んだことがないのか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』
とあるではないか。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
マタイによる福音書 22章31〜32節
創世記から始まって、出エジプト記、律法、ダビデ、詩編と
聖書の至る所から引用して、問いかけています。
聖書のこの箇所を
読んだことがないのか?と。
そして、その聖書箇所から正しく理解するように促しているのです。
聖書のその箇所を正しく理解すれば、イエスが神の子であることが
わかるはずだ、というのです。
祭司長たちには、聖書の豊富な知識は確かにあったでしょう。
しかしそれを正しく理解できていなかったのです。
正しい理解をしていなかったところから、間違った先入観はきていたのです。
3.3 勝手な解釈による思い込み
聖書を正しく理解できていないと、どうなるでしょう?
自分勝手な解釈が、生じてきます。
「メシアは王だから、王としての働きをするに違いない。」
「王として権威をもって、この地上にダビデ王国を回復するはずだ」
「ローマ帝国を打倒して、王国を打ち立てるはずだ」
「おかしいそんなそぶりが少しもないではないか?」
「力ある王として世を裁く方のはずだ」という考えは、間違ってはいません。
正解です。しかし、この時はまだその姿になられていなかったのです。
逆にご自分を低くして、王なのに十字架にかかろうとされていたのです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに
固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、
人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
フィリピの信徒への手紙 2章6〜8節
王として地を裁くために来られるのは、再臨の時です。
その時こそ、権威ある王として地上の民を裁かれるのです。
神の御前で、そして、
生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、
その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。
テモテへの手紙二 4章1節
イエス・キリストは、再臨の時に地を裁くためにこの地上に来られるのです。
3.4 自分たちのプライド
間違った先入観の原因は、彼らのプライドもあったことでしょう。
イエスは、ファリサイ派の人々や、律法学者に対して
あからさまに間違いを指摘していきました。
律法学者たちとファリサイ派の人々、
あなたたち偽善者は不幸だ。
杯や皿の外側はきれいにするが、
内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
マタイによる福音書 23章25節
自分たちが偽善者呼ばわりされてしまい、
ものの見えない案内人、白く塗った墓などと言われていました。
これによって彼らのプライドは、ずたずたにされてしまっていたのです。
彼らとしては、聖書の律法を守っている私たちは正しい!
という思いを、持っていたはずです。
それを「間違っている」とあからさまに言われてしまったらどうでしょうか?
反対している方がおかしいと、思いたくならないでしょうか?
聖書にこう書いてあるから、私たちはそれを守っているのだ。
「私は薄荷、いのんど、茴香の十分の一をきちんと献げているのだ」
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、
律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。
これこそ行うべきことである。
もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
マタイによる福音書 23章23節
イエスに対する間違った先入観は、こうやって生み出されていたのです。
逆に聖書にそれほど精通せず、先入観を持っていなかった人々の方が、
たやすく信仰をもてたのです。
むすび.先入観を捨てよう!
間違った先入観は、正しい人を殺そうとしてしまいます。
ラザロは、単にイエスに生き返らされただけなのに殺されようとしていたのです。
救い主イエスは完璧に正しかったのに、殺されてしまいました。
私たちも、ラザロを殺そうとした祭司長たちやファリサイ派の人々を笑えません。
私たちもまた、同じように罪人であり、不完全だからです。
自分の力で神を完全に完璧に理解することができないのは、同じです。
ですからどこかで、間違った先入観を持ってしまうのです。
自分の理解が完璧に正しいと思う所に、罠があります。
間違いを神によって取り除いていただいて、
神の正しい知識を教えて頂き、
正しく、聖書を理解していく必要があります。
パウロも初めは、間違っていたのです。
実は私自身も、
あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。
そして、それをエルサレムで実行に移し、
この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、
彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。
使徒言行録 26章9〜10節
しかしパウロは、イエス・キリストに出会って、間違いに気づきました。
私たちも祈りの中で、イエスによって間違いを教えて頂き、
より正しい理解へと、進んでいきたいと願います。
パウロの間違った先入観を取り除いて下さった主イエスは、
私たちの内にある間違った先入観をも、取り除いて下さるお方なのです。
「私は完璧に正しいです」と言えるような人は、世界に一人もいないのです。
【今日の聖書】
イエスがそこにおられるのを知って、
ユダヤ人の大群衆がやって来た。
それはイエスだけが目当てではなく、
イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。
多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、
イエスを信じるようになったからである。
ヨハネによる福音書 12章9〜11節