島根県立盲学校と聾学校の創始者福田与志
福田与志は、福田平治の妹で明治5年4月14日(15日?)に鳥取県で生まれています。
実家は、鳥取市元大工町にありました。
その後与志は、明治12年に鳥取から松江に移住します。
島根県尋常師範学校に入学し、明治23年7月12日にそこを卒業します。
学校の場所は現在の県警本部の所で、島根県中等教育発祥の地の碑が建っています。
その後、明治32年まで9年間、本庄小学校で小学校教師をつとめます。
バークレー・F・バックストンが松江に来たのが明治24年で、バックストンは
明治35年まで松江にいましたので、そこで与志はバックストンに出会います。
明治30年に信仰を持った兄同様、イエス・キリストを信じて、クリスチャンになるのです。
その後与志は、盲唖教育をこころざし
明治32年2月23日本庄小学校をやめ、京都盲唖院に入ります。28歳の時のことです。
京都だけでなく、東京の盲唖学校でも教えた後、明治38年に松江に帰ってきます。
その時にはバックストンも、イギリスに帰国してしまっています。
その年に「松江私立盲唖学校」の設置申請を出し、5月8日に認可が下ります。
そして、5月20日に松江市母衣町に「松江私立盲唖学校」を仮校舎で開校します。
場所は、今の「あけのほし幼稚園」のある所で記念碑が建っています。
建物は民家で、生徒は盲児4名、聾児7名でした。
同じ年の8月30日に、松江市殿町の堀端の民家(税務署跡かも?)に移転します。
日本聖公会の教会の近くだったそうです。
その後盲唖学校は、明治40年5月1日に、松江婦人会に経営移管され、
「私立松江婦人会盲唖学校」と改称します。移管されても与志はその後もずっと働きます。
殿町にあった県議会議事堂が移転したため、改称しただけでなく
場所を、その県議会議事堂跡地に移転しています。
そこは現在、島根県教育委員会になっています。
2年後の明治42年5月8日、旧県庁の一部を借り入れ聾唖部教室を移転します。
そして明治44年7月31日に、松江市外中原町の師範学校前の空き地だったところに
新校舎が完成し移転しました。現在の松江北高校の寄宿舎のある所です。
その年の9月27日に、今度は財団法人山陰盲唖保護会に経営移管され
「財団法人私立松江盲唖学校」と改称します。
翌年の大正元年には、寄宿舎も完成します。
その寄宿舎の一室で与志は、大正元年11月28日に召天します。享年41歳でした。
大正12年4月1日、盲唖学校は島根県に移管され「島根県立盲唖学校」と改称します。
その後昭和16年1月16日、与志の兄の福田平治も召天します。享年77歳でした。
第二次世界大戦後の昭和22年4月1日、島根県立盲唖学校に高等部が設置されます。
翌年の昭和23年3月31日、島根県立盲唖学校は廃止され
翌日の4月1日に、今度は外中原校舎を「島根県立盲学校」と
「島根県立聾学校」に、分離併設することになりました。
昭和25年7月16日、盲学校だけ南田町に移転し盲学校と聾学校は場所も分離します。
その後、昭和28年4月1日に、浜田にもろう学校ができたため、
名称を「島根県立松江ろう学校」と改称します。
現在ろう学校は、松江市古志町峰垣に校舎がありますが、
そこに移転したのは、昭和54年4月6日のことでした。
盲学校は、その9年前の昭和45年9月に、
現在の、西浜佐陀町に移転しています。
このようにして、クリスチャンの福田平治・与志の兄妹らによって
現在の「島根県立松江ろう学校」と「島根県立盲学校」の
前身となる働きが、明治時代にはじめられ
21世紀の現在に至っているのです。
福田平治・与志の墓は、北霊園の北側に二つ並んであります。
墓石には、聖書の言葉が刻まれています。
ふたりがクリスチャンであったことの、あかしです。
【今日の聖書】
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。
弱い人を得るためです。
すべての人に対してすべてのものになりました。
何とかして何人かでも救うためです。
コリントの信徒への手紙一 9章22節