なぜ差別してしまうのか?
1.差別したくなる理由 −自分よりも下を作りたい−
Q.なぜ差別してしまうのか?
それは、自分よりも下の人が欲しいからです。
自分よりも下の人を作ることによって、
「自分の方が彼よりも上だ!」という状態にもっていきたいのです。
自分の方が価値があるから、「自分は彼よりも生きてゆく価値がある人間だ」
「だから私は生きていてもいいんだ」という、見えない動機があるのです。
要するに、自分を価値ある存在とし、自分の存在意義を確かにしたいのです。
2.自分の優越性を示したいという隠れた動機
「優れていなければ生きている価値がない」という意識の中で
「でも実際の自分は優れていない」という自己認識があると
「私は生きていてもいいんだ」ということをどこかで証明したくなります。
そのために、自分の優越性を何とかして示したくなるのです。
(1) 努力して人より優れた人になろうとする
ある場合は、人よりも優れた人間になるように、努力するようになります。
勉強やスポーツ、職人技などを身に付けようとします。
難関大学を目指し、金メダルを狙い、賞を得ることを狙います。
そして「自分はこのことに関しては人より優れている」と
自他ともに認める存在になろうとするのです。
「どうだ、俺はここまでできるんだぞ!すごいだろう?」
けれどもそれは、その人の外側の技術が高いだけであって、
本人の内面は、そのままなのです。
外側の技術を高めても、内側が優れていくわけではないのです。
(2) 高い地位を得ることによって人より優れた人になろうとする
またある場合は、人から尊敬されるような地位や名誉を得ようとします。
先生、教授、会長、理事長、社長、国会議員、大臣、首相、...
そのような地位を獲得することによって、優越性を得ようとします。
優れた地位を獲得すると、人からは「先生」「社長」「理事長」などと
呼ばれるようになります。そうなると、
あたかも自分が何か優れた人物になったかのように、錯覚してしまいます。
けれどもそれは、地位が高いだけであって、本人は本人のままです。
退職したり、任期が終わったりすれば、その地位も他の人に
譲ることになってしまいます。
(3) 高価な物を持つことによって人より優れた人になろうとする
またある場合は、持ち物において、人よりも良いものを持とうとします。
高級ブランドの高価な服や、高価な宝石や腕時計などの装飾品、
高級住宅街や高級マンションの中の豪華な自宅、高級外車、...などです。
普通の人には買えないような高級車から、高級な服装で降りてきたら、
その人まで何か、他の人とは違う特別に高級な人のように思えてしまいます。
けれどもそれは、持ち物が高級なだけであって、本人は本人のままです。
上記のような、「自分は人よりも優れている」という思いを、
「高ぶり」とか「高慢」「傲慢」と言いますが、
そのような「高ぶり」の背後には、
「自分が人よりも優れている」ということを確認して
「自分の存在意義を確立したい」という、隠れた思いがあるのです。
その究極は「自分は生きていて良い存在なんだ」ということの確認にあるのです。
3.人を貶めて自分の優位性を保とうとする
上記のように、自分を優れた者に見せようとすることは、
技術を身に付けるための、並々ならぬ努力をしたり、
いろいろなコネクションがなければならなかったり、
多くの財産を持っていなければならなかったり、と
普通の人々にとっては、なかなか難しいことです。
そう簡単にはできません。
けれども、自分を優れた者に見せるためのもっと簡単な方法があります。
それは他の人を、自分よりも劣った人にしてしまうという方法です。
自分が人よりも優れた者になるのが難しいなら、
逆に「他の人を、自分よりも低くしてしまおう」というのです。
他の人を自分より下にしてしまえば、相対的に自分の方が上になります。
「自分は彼より優れている」だから「自分の価値は高い」
それゆえに「自分は生きる価値がある存在だ」とするのです。
ここに「差別」の根本的な原因があります。
差別というのは、自分の存在意義があいまいなことに起因するものです。
自分の存在意義を確立するために、自分よりも下の人々を作り
「他人を踏み台にして自分の存在意義を確立してしまおう」という
そのような行動だといえます。
むすび.差別解消のためにどうすればよいか?
とするならば、差別をなくすための方策は自明です。
「私は生きていて良い、とても重要な存在である」
ということを、全員がはっきりと自覚すれば良いのです。
それは「人より優れている」とか「優れていない」ということとは、
全く関係ないということを、はっきり知れば良いのです。
「優れていなければ生きている価値がない」という意識が、
そもそも間違っているのです。そこに気が付くことから始まります。
「優れていなくても十分生きている価値がある」のです。
「本当の自分は少しも優れていない」という自己認識があっても大丈夫なのです。
人との比較から解放されることです。
「自分は大切な存在である」ということが認識できるようになれば、
「隣人も私と同じように大切な存在である」と、認識できるようになります。
もはや自分の優位性を保つために、人を下にする必要性がなくなります。
そればかりか、人の下になっても自分の重要性が変わらないことがわかれば
喜んで人の下になることでしょう。
そうなれば「差別」は、自然と消えてゆくのではないでしょうか?
イエス・キリストは神の子でしたが、人を下にするのではなく
へりくだって人の下になられたお方でした。
【今日の聖書】
食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、
手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、
腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書 13章4〜5節