罪人なのに赦されたのがクリスチャン
1.すべての人が罪人
1.1 人は皆、罪を犯している
聖書では、人はすべて罪人だと断言されています。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ローマの信徒への手紙 3章23節
1.2 心の中で思うだけで罪
罪と言うと、傷害、殺人、窃盗、強姦、詐欺などを思い浮かべますが
実際に行動を起こしていなくても、隣人を害する思いは、すべて罪です。
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。
人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。
兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。
兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、
『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
マタイによる福音書 5章21〜22節
「腹を立てる」というのは、自分の心の中の状態です。
腹を立てた結果、殴ったら傷害罪ですが、
腹を立てても殴らなければ、法律的には罪に問われることはありません。
しかし聖書では、殴るという行動を取らなくても
腹を立てた段階で、もうそれは紛れもなく罪だというのです。
殺人罪と何ら変わらないというのです。非常に厳しいです。
1.3 神の罪に対する基準は非常に厳しい
こんな基準で測られたら、誰も私は正しいですとは言えないでしょう。
いや、今までどれだけの罪を犯し続けてきたことかと
改めて認識するのではないでしょうか?
2.生まれた時から罪人
2.1 ノアの洪水後に神が説明されている
ノアの洪水の後、神はノアにこう言われています。
「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」
幼い時から、誰もが悪いことを心に思ってしまうというのです。
主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。
「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。
人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。
わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。
地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも
寒さも暑さも、夏も冬も
昼も夜も、やむことはない。」
創世記 8章21〜22節
2.2 だから仕方がないというのではない
生まれた時から人間は、どうしても悪いことを思ってしまう罪人なのです。
「だから仕方ない」ではなく「だから何とかしなければならない」のです。
そのままであれば、破壊的な人生が待つばかりです。
2.3 何とかしなければならない
だから何とかして、その罪から逃れなければならないのです。
罪から逃れ、罪に支配されない人生を送らなければなりません。
人生を罪のために台無しにしてしまってはなりません。
3.罪の解決への道
3.1 罪を認める
第一段階として、まず自分自身の内にある罪を認識しなければなりません。
「私は何も悪いことはしてきませんでしたし、今もしていません」
という思いではなく、自分自身の心の中を聖書と照らしあわせるのです。
そして、私は紛れもなく罪人ですと認めるのです。
ファリサイ派の人々ができなかったのは、これです。自分自身の罪の認識です。
イエスはそれを指摘しています。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、
姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
ルカによる福音書 18章11節
何が欠けていたかといえば、人の罪は指摘するのに、
自分の罪の認識が決定的に、存在していないことです。
せっかく罪を赦す救い主が来られても、自分が罪人だと認めなければ赦されません。
姦淫の現場で捕らえられた女性を連れてきた時も、そうです。
「この女は姦通をしていたから、死にあたる罪を犯しています」と
訴えましたが、人の罪を指摘しても自分の罪は棚上げです。
イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
ヨハネによる福音書 8章4〜5節
イエスは答えられます。「罪のない者が、まず石を投げなさい」と。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、
イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、
この女に石を投げなさい。」
ヨハネによる福音書 8章7節
誰も投げられないのです。ここで初めて、人々は自分自身の罪を認識するのです。
「裁かれなければならないのは、この女性ではなく自分だ」と気づくのです。
3.2 イエスが十字架で私の罪を赦すために死んでくださったと信じる
自分の罪に気づけば、あとはその罪を赦してくださるイエス・キリストを
救い主と信じるだけです。
イエス・キリストが、十字架にかかって私の罪を赦すために血潮を流し
死んでくださったと信じた時、罪が赦されます。
罪があるにもかかわらず、その一切の罪が赦されるのです。
これこそが、聖書の中心メッセージです。
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、
罪に定められることはありません。
ローマの信徒への手紙 8章1節
イエス・キリストを信じる人は、罪に定められることはないのです。
自分の罪を公に言い表すなら、
神は真実で正しい方ですから、
罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。
ヨハネの手紙一 1章9節
あらゆる罪から、清められるのです。
3.3 信仰を行動で表す
イエス・キリストが私の罪を、完全に赦してくださったと信じたら、
それを行動で表していきます。きれいにされたのなら、それを保持します。
きれいにされたように生きるのです。
どうせこんなに罪を犯してきたから、もうだめだという思いを捨て去ります。
それらの罪をまったく犯してこなかったかのように、赦してくださったのです。
二度と罪の奴隷にならないように、罪から離れます。
そして赦されたことを、人を赦すことによって表明していくのです。
もし人の過ちを赦すなら、
あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、
あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイによる福音書 6章14〜15節
私たちは死ぬまで罪人であることは変わりありません。
けれども、イエス・キリストを信じた時から、その罪の赦しを宣言された
生き方へと変わるのです。
「罪人なのに赦されている」それが、クリスチャンです。
罪がなくなったのがクリスチャンではなく、
罪があるのに赦されているのがクリスチャンなのです。
【今日の聖書】
神はこのキリストを立て、
その血によって信じる者のために
罪を償う供え物となさいました。
それは、今まで人が犯した罪を見逃して、
神の義をお示しになるためです。
ローマの信徒への手紙 3章25節